資本主義経済は何故速く成長するのか |
三和良一 |
1 前言 新しい100年紀、新しい1000年紀を迎えて、人類は、画家ゴーギャンが19世紀末に絵画のかたちで提起した、古くからの深刻な疑問を、改めて問い直している。 我々はどこから来たのか。我々は何なのか。我々はどこへ行くのか。 この疑問への答えを得るために、多くの宗教が生まれ、数多くの思想が展開され、そして無数の科学的思考が積み重ねられてきた。しかし、まだ、我々は納得できる答えを得ることは出来ていない。 20世紀は、人類の科学的知見が、画期的に拡大した世紀であった。1905年のアインシュタインによる相対性原理仮説の提起は、人間の外的環境を構成する要素、物質・エネルギー・時間・空間を統一的に理解する途を拓き、1953年のワトソンとクリックによる遺伝子のDNA2重螺旋構造仮説の提唱は、人間の内的構造を解明する的確な方向を示した。以来、人類は、原子を操作してエネルギーを開放し、それを戦争と発電に利用することを開始し、遺伝子を操作して新しい生物を創りだし、それを農業と医薬に活用することに着手した。しかし、生命の外的環境と内的構造を、これほどまでに知るにいたった20世紀を送るに際して、我々は、まだ、先の疑問への答えを得たとは思えないばかりか、さらに一層深く、この疑問にこだわるようになってさえいる。これは何故なのか? 1961年に、ガガーリンが、初めて、宇宙空間に浮かぶ青い地球を見つめた時から、人類は、自らを、宇宙時空のなかの存在として実感しはじめるようになった。8年後に、アームストロングとオルドリンが、外の天体から地球を見たことで、この実感は一層強まり、宇宙船地球号の乗員として、人類の連帯感は深まった。とはいえ、20世紀の後半に入ってからも、人と人とが殺戮し合う紛争の数は減るどころか、むしろ増えてさえいる。人の持つ排他性と攻撃性は、人類の連帯を可能にするには、あまりに強すぎるのであろうか? 1917年のロシアで始まった社会主義は、20世紀末には破綻しはじめ、レーニンの努力はもちろんのこと、マルクスの着想も、そして、毛沢東の実践さえも、近代の遺物に数えられそうな状況が訪れて、人々の新しい社会への夢ははかなく消えつつある。かわって力を盛り返した資本主義は、グローバル・スタンダードとなって、人々に豊かさの夢を与えながら、利潤追求へ、経済成長へと駆り立てる。ものの豊かさと経済成長は、はたして、人間に幸せをもたらしてくれるのであろうか? 1908年に、フォードが、T型車を作り出してから、モータリゼーションが始まり、人々の移動の自由は飛躍的に高まった。1914年に始まる定期旅客航空は、その発達とともに、地球上の距離をますます短縮させ、人々の行動空間を拡大させた。とはいえ、内燃機関の普及とともに、化石燃料の消費量は加速度的に増加してエネルギー資源枯渇の危機を招き、そのうえに、排気ガスのもたらす地球環境への影響が気温の上昇として実感されるまでに至った。はたして、経済は、地球の限界を超えてまで成長し続けることが出来るのであろうか? このような疑問を新たに生み出した20世紀の経験が、先の古くからの疑問を、ますます、答え難い疑問、しかし、一層答えを出さねばならない疑問にしたといえよう。この疑問への答えを探す作業は、当然、学際的な共同作業でなければならない。一人の経済史研究者としては、とりあえず、この疑問を、次のように読み替えて、それを解くための手がかりを探ってみよう。なにしろ、現在の人類の大きな部分は、好むと好まざるとに関わりなく、その生存の経済的基礎を、資本主義というシステムの手に委ねなければならないのだから。 資本主義はどこから来たのか。資本主義は何なのか。資本主義はどこへ行くのか。 2 速い経済成長 資本主義の際だった歴史的特質は、経済成長が、他の歴史社会に較べて、格別に速いと言うことである。経済成長率を用いる比較はできないから、人口増加率から類推することにしよう[1]。紀元前1万年の世界人口は400万人で、その5000年後には500万人と、この5000年間の人口増加率は、年率にして、0.005%に過ぎなかった。その後、紀元1年には人口は1億7000万人となったから、この5000年間は年率0.07%と人口増加率は急上昇した。この人口推計は、紀元前5000年頃から農耕社会が登場してそれ以前の狩猟採集社会に較べて生産力が格段に上昇したと仮定している数値である。現在では、農耕の開始は、紀元前1万年あるいはそれよりも早い時期と推定されるから、この人口推計は修正する必要があるかもしれない。 紀元1年からの第1千年紀の1000年間には、9500万人増加して、世界人口は2億6500万人になった。年率0.045%程度である。第2千年紀の前半には、年率0.1%で増加して人口は4億2500万人になった。紀元1500年から1700年までの200年間は、増加年率0.18%で、人口は6億1000万人となった。農耕社会の人口増加率は、かなり低いのである。 ここらあたりから資本主義社会に入るが、1700年から1800年までの1世紀は、増加率は0.39%になり、さらに、19世紀前半には、増加率は0.58%に上昇して1850年の世界人口は12億人となった。その後の100年間では、人口増加率0.74%で、人口は25億人に達した。さらにそれからの50年は、増加年率1.8%で、2000年に世界人口は61億人を超えるに至ったと推計される。 明らかに、資本主義が登場してから人口増加率は急上昇している。この人口増加率上昇は、もちろん、医療技術や栄養摂取の水準が高まったり、家族の構造が変化した結果でもあって、直ちに経済成長率を反映するわけではない。むしろ、数値としては、経済成長率の方が、人口増加率以上に速く上昇したとも考えることができる[2]。ともあれ、長い歴史のなかで見れば、近代に入ってからのこの人口増加は、資本主義がもたらした生産力の急上昇を基礎として出現したことは間違いなかろう。資本主義は、歴史社会としては、特別に、高度経済成長型の構造を持っているのである。 「資本主義は何なのか」という疑問への答えは、「資本主義は何故速く成長するのか」という問題を解くことから得ることができそうである。 3 技術革新と経済成長 資本主義が早く成長する原因としては、技術革新を挙げるのが普通である。たしかに、技術革新は、成長率を上昇させる。人類史の大部分を占める狩猟採集社会の時代には、包犧氏が作ったと周易「繋辞伝・下」が伝えるような狩猟・漁労の道具が用いられていたが、生産活動の対象となる動植物は、自然の法則に従って生命活動を営む存在であり、その賦存量は、基本的には人間にとっての外生変数であった。乱獲を自制して、賦存量の減少を避ける工夫はなされていたにしても、気象条件の変化などによる賦存量変化によって、獲得=生産できる消費財量は変動し、定常的に生産量を維持したり、継続的に生産量を増加させることは、ほとんど不可能であったと推測できる。 周易で神農氏の手によると記されている農耕用具を用いて生産を行う農耕社会が、紀元前1万年頃から発達し始めると、生産力は画期的に上昇した。なお自然法則の下にではあったが、農耕・牧畜は、生産活動の対象となる動植物の存在量を、人間が制御するようになったからである。外生変数であった動植物量を対象とする労働よりも、半ば内生変数となった動植物量を対象とする労働のほうが、生産効率が高いのは当然と言えよう。この農耕・牧畜技術の開発は、人類史における最初の大きな技術革新であった。地球の自然に及ぼす影響の差に着目して、狩猟採取時代の人類は、まだ生物圏の中の1つの種に過ぎなかったが、農耕・牧畜を始めた人類は、生物圏から分化した「人間圏」を地球システムの中に創り出したという仮説も提起されている[3]。 耕地・牧地の開発が可能な限り、動植物の存在量=生産量を増加させることができるようになり、消費可能量の拡大にともなって人口は増加した。限られた土地面積のなかでの生産量の増加も、栽培種の選択と改良、栽培用具の改革、栽培技術の改善などによって、徐々に進められた。とはいえ、なお、自然法則の支配の下での生産活動であるため、生産性向上は緩慢で、生産量は、気象条件による影響を大きく受けていた。手工業生産では、すでに狩猟採取社会で開発されていた土器・衣類・住居・その他の用具の製造技術が改良され、金属・ガラス・紙・火薬が素材に加わり、車輪・馬具・帆船・時計・羅針盤・水車・風車・印刷器などが開発された。手工業技術の改良と革新は、織物・陶器・鉄製農具などのような人々の生活を向上させる財をもたらした。とはいえ、鉄器の使用は、民生用具の効率を高めるよりも、武器の殺傷力を高めた点で歴史的意味が大きいとも考えられるように、技術革新の二面的性格、「光」と「陰」は、すでに現れていた。 農耕・牧畜時代の手工業は、対象物を加工する作業機部分は人間の熟練を必要とする「道具」であり、動力は、人力・畜力・風力・水力であって、生産性の上昇は緩やかにしか進まなかった。農耕・牧畜・手工業による生産活動の時代は、おおむね、経済成長率は低位で、気象条件による変動が大きかったと言えよう。また、古代文明の興亡の歴史が示すように、その盛隆を支えた自然条件、特に、耕地や森林が、人間活動の結果として、塩分堆積や濫伐によって破壊されると、文明それ自体が崩壊するという、いわば、「資源と環境の限界」が、経済成長はおろか経済的再生産さえも不可能にする事態が発生していることにも注目しておく必要がある。 じつは、工業社会の時代への移行も、この「資源限界」を突破しようとする技術革新によって推進された[4]。西欧中世社会の人口は、ペスト流行による中断を経ながら緩やかに拡大し、それとともに、熱エネルギー源であった薪・木炭の消費が増加した。その供給源である森林の再生スピードを超えた薪炭消費は、農耕地と放牧地の拡大も相まって、森林=エネルギー資源を減少させ、中世のエネルギー危機を発生させた。この「資源限界」は、石炭の利用で切り抜けるしかなかったから、深度の深い地層に眠る石炭を採掘するための技術が求められ、排水・換気・運搬の機器を動かす動力源として蒸気機関が発明された。薪炭の供給地はいわば「面」として各地に広がっていたのに較べると、「点」として存在する炭坑が産出する石炭は、遠距離の地上輸送が必要で、輸送手段の革新が求められ、馬に代わる汽車・汽船が発明された。クランク機構の採用で回転運動の動力源となった蒸気機関は、それまで水力・風力・畜力を利用していた道具(作業機)と結合されて、機械が誕生した。 東洋特産の上質な衣料品として人気を集め、イギリスでの国産化が始められていた綿織物の生産過程では、綿紡機・織機の改良と蒸気機関の採用が進められて、機械制綿工業が発達した。機械を作る機械である工作機械の改良も進められ、中ぐり盤・旋盤・フライス盤などが開発された。素材としての鉄鋼の生産も、木炭に代わってコークスを使用する製銑法、パドル法から転炉・平炉に至る製鋼法の開発で、需要の急速な拡大に対応できるようになった。 機械を使用する工業生産は、道具を使用する生産に較べて、飛躍的に生産性が高くなった。さらに、機械は、道具よりも、それを操作する人間の熟練度に制約される度合いが低いことから、機械の改良・改善ははるかに容易におこなわれるようになり、生産性を、恒常的に上昇させることが可能になった。 これら一連の技術革新は、産業革命とよばれ、この産業革命が、資本主義という経済システムを確立させたのである。その後も、蒸気機関は、電力を使用する電動機や石油を使用する内燃機関に置き換えられ、新しい機械として、乗用車、家庭用電気機器などのいわゆる耐久消費財や航空機が登場し、さらに、第2次大戦後には、石油化学製品として合成繊維・合成樹脂・合成ゴム、エレクトロニクス製品として通信機器・カラーテレビ・テープレコーダ・ビデオレコーダそしてコンピュータが開発されるなど、技術革新は、持続的に進行した。同時に、兵器の種類・性能は、飛躍的に高まり、究極の兵器、人類を絶滅させる力を持った核爆弾も開発され、それを運ぶミサイルも登場して、技術の二面性は、その姿を完全に明らかにした。 この様に、人類が開発した生産技術の歴史を見てくると、機械を使用する工業社会として登場した資本主義は、技術基盤自体が、急速な経済成長を可能にする性質を持っていると言うことができる。とはいえ、この近代の機械技術は、資本主義の速い経済成長を可能にする条件ではあるが、経済システムとしての資本主義それ自体が持っている高度経済成長体質とは別のものである。むしろ、経済システムとしての資本主義が、技術革新を促進したのであるから、資本主義の内部に埋め込まれている特質こそが、速い経済成長をもたらしたと見るべきなのである。では、その特質とは何であろうか? 4 平等原則と競争原則 資本主義も経済システムのひとつであるから、他の経済システムとは区別される特質を持っている。その特質を確定するには、経済システムの特質を検出する方法を特定しておく必要がある。ドイツ歴史学派の方法、マルクスの方法、近代経済学の方法などが提起されているが、筆者としては、マルクスの方法を選びたい。といっても、公式的な史的唯物論では、ほとんど何も見えてこないから、マルクスの遺した方法群から、3つを選び出して使用することにする。 第1は、『資本制生産に先行する諸形態』から選び取れる「共同体」概念である。第2は、『賃労働と資本』が明確にした「搾取」概念である。そして、第3は、『資本論』が解析した「商品経済」概念である。まず、「共同体」から見ていこう。 マルクスは、資本制的生産の歴史的前提となる自由な労働が出現するためには、小土地所有と共同体的土地所有が解体されることが必要であるとして、共同体的土地所有の歴史に目を向ける。そして、アジア的形態、古典古代的形態、ゲルマン的形態という3つの共同体的土地所有形態が存在することを指摘した。『資本制生産に先行する諸形態』[5]とほぼ同時期に執筆された『経済学批判』[6]の序言と結びつけると、マルクスは、アジア的共同体に基礎を置くアジア的生産様式、古典古代的共同体に基礎を置く古典古代的生産様式、ゲルマン的共同体に基礎を置く封建的生産様式という3段階の共同体を含む経済的社会構成をへてから、共同体の解体のうえに形成される近代ブルジョア的生産様式、つまり資本制社会が登場したという構想を持っていたと考えられる。 このマルクスの考え方に、M.ヴェーバーの考え方を合わせて、独自の共同体論を展開した大塚久雄[7]によれば、共同体とは、種族・氏族関係、血縁・地縁関係などで結びついた人々が、生産手段、特に大地(耕地・放牧地・原野・森林・河川・海面など)を、何らかのかたちで共有する状態である。共同体構成員は、生活資材・生産用具・住居・宅地・耕地などの一部を私的に所有しているが、彼らの生活は、共有する大地の共同使用を抜きにしては成り立たない。人類は、はじめには、生産手段の全てを共有する原始共同態の中で生活していたが、農耕社会に入ると農業共同体を構成した。生産手段は、構成員の私的所有部分と構成員間の共有部分とに別れ、古い時代には、後者、共同体的所有が大きな割合を占めていたが、次第に私的所有が拡大する。農業共同体は、アジア的、古典古代的、ゲルマン的の3つの基本形態に分けられる。アジア的形態では、私的所有は、宅地と庭畑程度で、主要な耕地は共同体的所有であったが、ゲルマン的形態にいたると、耕地も私的所有となり、共同体的所有である放牧地・森林に対しても、私的占有権が発生している[8]。 このような共同体という尺度を用いて測定すると、資本主義は、共同体が解体した社会であるという特質を検出することができる。では、この特質と速い経済成長とは、どのような関係があるのであろうか? 大塚は、ヴェーバーに依りながら、共同体は、その内部では、共同態的平等の法則にしたがって再生産を行い、その外部に対しては、土地などの排他的な独占を主張して封鎖されているという、構造的二重性を持つと規定している。共同体の構成員は、内部的には、私的活動の恣意性を共同体によって抑制されており、外部に対しては、封鎖的に振る舞い、激しい縄張り争いや皆殺し的戦闘を展開する。 この構造的二重性は、経済成長を抑制する効果を持つのではなかろうか。内部的に、構成員の間の平等を重視するという規範、「平等原則」が働いていて、構成員の私的で恣意的な行為が抑制されているとすれば、構成員間の較差が広がるような動きは発生しにくい。西欧中世の耕地強制[9]や、日本近世の水利規制[10]などの共同体規制が存在する場合には、構成員のなかに、新しい耕種の栽培や新しい耕作技術の採用を試みようとする人物が居ても、彼の試みは、実行し難いし、歓迎されもしないであろう。これでは、農業技術の革新は、なかなか起こりにくいのである。また、共同体的所有の下にある林野の利用は、平等原則によって厳しく規制されるから、必要以上の木材・薪炭を生産し、それを販売して貨幣を蓄積することなどは出来ない。日本近世では、水田の土壌品質保持に欠かせない刈敷[11]の採取も、共同体規制の下にあったから、耕地の質にも平等原則が作用していたことになる。 古い慣習や伝統に対して異議申し立てをする人々の行為のなかから、新しい品種、新しい耕作法が創り出されて、農業の生産性を上昇させ、経済成長を可能にするのであるから、この平等原則が作用している限り、経済成長は抑制されることになる。あるいは、平等原則が、所得格差の発生を抑制するとすれば、富が一部の人々の手に蓄積されて、それが投資に向けられて経済が成長するという具合にもならない。 また、構造的二重性のもう一つの側面である外部に対する封鎖性は、共同体と外部との様々な関係の進展を阻害する要因になる。人の交流、物の流通、そして知識の交流が自由に行われる中で、新しい試みをする人間、新しい生産物、新しい技術が育てられ、それが経済成長を促進することを考えれば、封鎖的な共同体は、旧来の慣習・秩序・価値観を守るには適していても、経済成長には馴染まない。 このように、平等原則と封鎖性を特質とする共同体が、何らかの程度で経済活動に影響を与える限り、それは、経済成長を抑制する作用を及ぼすと言えるであろう。とすれば、共同体の解体の上に成立した資本主義は、そのような経済成長抑制機構を持ってはいない。平等原則は、人格の平等、人権の平等、経済活動への参加機会の平等などの形では近代社会でも存続すると言って良いが、それらは、経済成長を抑制する作用を持たないばかりか、むしろ、それを促進する役割すら果たすことになる。資本家と労働者は、平等な人格を持つ主体同士として労働力商品を売買すると仮定され、まさにその結果として利潤が資本家の手に入る仕組みが資本主義なのである。また、地域的な封鎖性が解体され、市場が外延的に拡大し、労働力・商品・情報が自由に流動することこそ資本主義の成長を保証する条件なのである。 さらに、平等原則の後退は、それに替わる社会原則として、「競争原則」を前面に押し出す。「競争」は、自己と子孫の存続を目的とする生命体としては、その活動の根源にある原則と言えるから、人類も、その歴史が始まった当初から「競争」を一つの重要な行動原則としてきた。共同体も、その外部に対しては、この「競争原則」で対応したと言えるが、その内部では、「競争原則」を抑制する「平等原則」を採用した。「競争」が、共同体の構成員間に較差を発生させ、それが共同体の解体をもたらすことを避けるためである。この「平等原則」が作用力を弱めるに従って「競争原則」が表に出てくるのは当然で、共同体の内部における私的所有が拡大するにつれて、「競争原則」の作用力は大きくなった。そして、共同体が解体して「平等原則」が衰退した資本主義社会では、「競争原則」が、歴史的には初めて、全面的に、その社会の構成員の普遍的な行動原則となったのである。「競争」は、市場における自由競争であれ、高等教育を目指しての受験競争であれ、オリンピックのメダル競争であれ、競争の規則、ゲームのルールに従う限りは、「良きもの」として認知され、推奨される。経済活動が、規制されることのない競争を原則として展開されれば、それは経済成長に帰結せざるを得ないであろう。 共同体が解体した社会であるという資本主義の第1の特質は、こうして、速い経済成長をもたらすのである。 [1] 馬場宏二が引用しているMcEvedy とJonesの推計を利用する。馬場『新資本主義論』、名古屋大学出版会、1997年、27頁。 [2] 馬場宏二の推定。同上書、28頁。 [3] 松井孝典『1万年目の「人間圏」』、ワック、2000年。 [4] このような見方については、Richard G. Wilkinson, Poverty and Progress, Methuen, 1973.を参照。 [5] K. Marx, Formen, die der kapitalistischen Production vorhergehen, in Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie, Dietz, 1953. 執筆は、1858年1月頃と推定される。 [6] K. Marx, Zur Kritik der politschen Ökonomie, Moskau, 1934. 序言執筆は、1859年1月。 [7] 大塚久雄『共同体の基礎理論』、岩波書店、1955年。のちに、『大塚久雄著作集』第7巻「共同体の基礎理論」、岩波書店、1969年、に収録。 [8] 中国における共同体については、古代の井田制が崩れて以後は、祖廟・祠堂を結集点とする村落共同体、あるいは、「同居同財」「累世同居」の家族共同体の存在が指摘されているが、それとマルクス、大塚の共同体類型との対比は難しい問題である。 [9] 耕地強制Flurzwangは、耕地を、馬が牽く重量犁で鋤き起こす日程順序や、休閑地での共同放牧などを規定した慣行である。農道のない開放耕区では、共同体によって決められた犁耕の日程順序に従わずに、蒔き時の異なる耕種を栽培することは不可能に近い。遅く播種しようとするとすでに播種してある他人の耕地を横切らざるを得ないし、速く播種しても定時に犁耕する他人の馬犁が耕地を横切るのを阻止することはできない。休閑地に、播種しても、柵を設けることはできないから、家畜に出芽した植物を食べられてしまう。 [10] 水路を利用する水稲耕作では、春の水田への導水時期が村や水組で決められるから、通常の早稲品種よりも早く田植期を迎える品種を栽培することはできない。 [11] 山林の下枝・下草、原野の柴・草を刈り取って、田植え前の水田に投入して、牛馬や人間が踏み込んで、腐植土にして土壌の肥沃度を維持する。この草木を刈敷と呼ぶのである。刈敷きの投入量は、10アールあたり1000kg前後にも及んだ。 [12] K. Marx, Lohnarbeit und Kapital, 1849. [13] 搾取の証明は、マルクスの段階では、『資本論』で完成された。なお残された不完全さを補う作業は、宇野弘蔵によってなされた。宇野『経済原論』、上・下、岩波書店、1950・52年。 [14] K. Marx, Zur Kritik der politschen Ökonomie, S.79. [15] ある消費者の消費行動(ある商品の購入など)が、他の消費者に、同じ商品の購入などの消費行動を誘発させる効果。 [16] ヴェブレンが指摘した衒示的消費conspicuous consumptionのように、商品の物としての使用価値(乗用車であれば輸送手段としての性能)を目的としてそれを購入・消費するのではなく、それを所有することが自分の特別な社会的地位を顕示する効果をねらって商品(乗用車であればロールスロイスなど)を購入・消費するような消費者行動。より一般的には、商品の使用価値そのものを消費するためにではなく、その商品が他の商品とは異なる特徴=差異をもつためにそれを消費する行動。そこでは、商品は、有用性を持つ物としてではなく、他者にたいする「記号」として意味を持つことになる。 [17] この疑問に対する筆者の分析は、ひとまず、「経済史の可能性−歴史時間試論−」(『青山経済論集』、第44巻第3号、青山学院大学経済学会、1992年12月)で試みた。 [18] 山内昶『経済人類学への招待』、ちくま新書、1994年。 [19] K. Marx, Ökonomisch-philosophische Manuskripte, 1844. Drittes Manuskript. [20] D. H. Meadows, et al., The Limits to Growth, New York, 1972. [21] D. H. Meadows, et al., Beyond the Limits, Vermont, 1992. [22] 松井、前掲書。 [23] N. Georgescu-Roegen, The Entropy Law and the Economic Process, Harvard U.P., 1971. [24] 馬場宏二は、前掲書を、経済成長の根源的批判の観点から執筆している。経済成長批判の観点を明白にした経済学者は、日本では、馬場のほかに、玉野井芳郎(『エコノミーとエコロジー』、みすず書房、1978年)、室田武(『エネルギーとエントロピーの経済学』、東洋経済新報社、1979年)、渡植彦太郎(『経済合理主義と生活文化』、勁草出版サービスセンター、1991年)など数少ない。 [25] K. Marx, Zur Kritik der politschen Ökonomie, Vorwort.
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