経済政策史のケース・スタディ |
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三 和 良 一 |
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1 はじめに 2 井上財政の課題はなんであったか A 大状況「場」に規定された初期条件・課題 3 井上準之助はどのように政策を決定したか A 井上準之助の履歴 D 政策の選択 4 井上財政をどのように評価すべきか A 初期政策の合理性 B C時空変化後の政策対応の合理性 5 むすび
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1 はじめに 2002年9月、小泉第2次内閣が発足すると、株価は暴落した。公的資金の投入に反対していた金融担当大臣が更迭されて、骨太の改革路線を提唱する経済大臣が金融大臣を兼任したのであるから、期待感が高まっても良さそうであるが、そうはならないところが面白い。どんな思惑があったか分からないが、自己資本不足の銀行の持株を買い取ろうと言いだした日銀に、見たこともない変化球だと不快感を表した経済・金融大臣と、日銀株買いにすぐ調子を合わせた財務大臣との不調和が、いっそう拡大することへの不安からというわけではなさそうである。不良債権が大変だとは言っていたものの、株式市場は、輸出が少し伸びたりすると、淡い期待でささやかに値を上げたりしてきた。しかし、いざ、その本格的な整理が始まりそうになると、不良債務を抱えた企業が破綻する現実の重みに、あらためて気づいて、狼狽相場になってしまった。こんどは政府が慌てて、ささやかながら緊縮路線の見直しをするなど、なんとも見場の良くない展開になってきた。とはいえ、見場は悪いが、経済政策史の研究対象としては、興味津々のところがある。 20世紀資本主義からの世界史的な転換が進むなかで、民営化と規制緩和の構造改革を掲げた小泉内閣は、同時に、財政危機に対応するために財政健全化を表明し、国債発行上限30兆円の緊縮財政を選んだ。1990年のバブル崩壊以降、社民党連立内閣を含めて歴代内閣は、かなりの規模の不況対策を繰り返してきたが、政策効果は芳しくなく、「失われた10年」は、さらに続いている。グローバリズムと呼ばれるアメリカ流の市場第一主義、G.ソロスが市場原理主義と名付けた潮流が、自己主張を強めるなかで、日本も、旧態依然の公共投資中心の景気政策に見切りをつけ、規制緩和のニュールック政策を選んだわけである。しかし、積年の財・政・官利権複合体の壁は厚く、規制緩和は遅々として進まないうちに、アメリカの景気後退、アジアの大龍小龍が仕掛ける強烈な価格競争で、日本経済は、さらに深く沈んでしまった。 バブル後遺症の不良債権堆積が、景気の立ち直りを妨げているから、その抜本的な処理が必要とは、10年来唱えられてきたが、実態としては、銀行の手持ち資金は、貸付対象が少ないままに国債などの金融資産に転化し、遊資過剰の有様である。この限りでは、更迭された金融大臣の金融機関は健全という主張が正解である。問題は、不良債務の側にある。本来、20世紀資本主義では、経済政策の展開のあり方によっては、一国の国際競争力が劣化する局面が現れ、それへの対応として生産力保証政策として、産業政策などが出動することになる。バブル崩壊後の不良債務累積は、根源的には競争力の劣化の表現であるから、生産力保証政策が必要な局面にほかならない。ところが、歴代内閣は、財政出動によって市場を刺激して不良企業にも立ち直りの機会を与えようと躍起になった。競争力が劣化した企業でも、政策が創り出した温室的環境のなかで、どうにか延命が可能になったが、問題はひとつも解決されはしなかった。 このような状態にたいして、小泉内閣が示した姿勢は、財政出動は控えて、競争を激化させる構造改革を進めることによる企業活動の刺激、つまりは、優勝劣敗の競争原理の強化であった。筆者の20世紀資本主義理解に沿うならば、これは、企業に対してスパルタ式のハード・トレイニングを課して競争力を回復させようとする生産力保証政策の発動と見える。サッチャーリズムやレーガノミックスの成功をみながら、中曽根行革を進めた日本ではあったが、中身としては、なお、政府主導の経済政策からの離陸は出来ていなかった。護送船団型の保護、仕切られた競争は、バブル景気が終わるまでは、依然として健在であった。バブル崩壊後、護送船団方式の最たるものだった金融業政策で、ついに、変化が生じ、北海道拓殖銀行の消失という事態が起こり、ふたつの長期信用銀行も見捨てられた。遅蒔きながら、20世紀資本主義からの転換の世界潮流が、日本にも流れ込んできた。小泉内閣の姿勢を、この潮流のなかで捉えれば、構造改革・緊縮財政は、20世紀資本主義の生産力保証政策と評価するわけにはいくまい。やはり、市場原理主義を目指した新しい動きと見るべきであろう。 そして、この方向は、不況の淵に沈んだ日本経済を再生させる道としては、的確な選択である。企業の自助努力、凄惨な競争の修羅場を生き抜くギリギリの努力こそ、市場経済における資本主義企業に求められる本来のあり方なのであるから。ポピュリスト政治家のパフォーマンスであったとしても、「毅然として」構造改革を唱え続ける小泉首相の姿は、それなりに、市場原理主義の時代の旗手にふさわしい。とはいえ、ソロスですら辟易するファンダメンタリズムは、今のところは、社会主義が崩壊した後に現れたイデオロギー、ないしは、アメリカの冷戦勝利ユーフォリアの化身程度のものであるから、現実的な経済政策が依拠できる新しい原理かどうかは疑わしい。当のアメリカは、市場ではなく、力こそがレアル・ポリティークであることを熟知して、中東の石油を囲い込むための現実的努力に全力を集中している。 15年ぶりの株安で、日本経団連の会長まで、もうあとがないとか発言するありさまで、減税と財政支出を求める大合唱がまき起こっている。ここらが、市場原理主義の正念場で、またぞろ20世紀資本主義的な景気刺激政策が呼び出されるかもしれない。まだ、亡霊というほど年を経てはいない政策ではあるが、その効き目は、「失われた10年」で明らかなところで、近づきつつある総選挙の時の「言い訳け」程度の効果しか持たないであろう。まさに、経済政策史的研究のケース・スタディに恰好な状況ではあるが、小稿は、まだ小泉緊縮政策を評価する段階にはない。20世紀資本主義の時代に現れた、歴代第2番目の緊縮政策、井上財政を、前稿[1]の松方財政に続いて検討するのが当面の課題である。
2 井上財政の課題はなんであったか 前稿で提起した方法・手順に従って、まず、井上財政の課題がなんであったかを見ることから始めよう。井上準之助は、後掲年譜に示されているように、1923(大正12)年9月から翌24年1月までと1929(昭和4)年7月から31年12月までの2回、大蔵大臣に就任している。はじめの蔵相時代には、関東大震災の事後処理に忙殺されているうちに虎の門事件で山本権兵衛(第2次)内閣が総辞職したので、特徴ある政策を行うことはできなかった。井上財政と呼ばれるのは、浜口雄幸民政党内閣に2度目に蔵相として入閣したときに展開した財政経済政策である。 A 大状況「場」に規定された初期条件・課題 大状況「場」とは、社会の経済的構成=社会構成体の推転にかかわる歴史的状況である。1929年といえば、日ソ基本条約に調印してから、つまり、ロシア革命への干渉戦争をあきらめて遅蒔きながら社会主義ソ連を国家として承認してから4年後、ロシア革命から数えると12年後の時期である。世界史上はじめて、社会主義経済を目ざす国が出現して、それが主権国家として認知されたのであるから、歴史の流れから見れば、資本主義から社会主義への推転が開始された時期といえる。 ここで、急いでことわっておかねばならないことがある。1989年以降の社会主義圏の崩壊と変質=市場経済化の現実からすると、「資本主義から社会主義への推転」が開始されたという表現は、いささかおかしく響く。東西冷戦はアメリカの大勝利に終わり、市場原理主義がグローバル・スタンダードになった昨今の現実は、1917年の社会主義革命の歴史的意義を、「後発国の開発独裁の失敗の始まり」程度に貶めることになった。しかし、はたしてこの新しい評価が正しいか否かは、長い目で人類史を見通してからでないと即断は出来ない。「社会主義への推転」の第1ステージが挫折したのは事実としても、人類が、市場原理主義の猛威に耐えかねて社会主義の第2ステージを選択する可能性は、なお否定されてはいないからである。とはいえ、ソ連型社会主義がみじめにも失敗したことは否定のしようもない事実である。ここから見ると、1917年以降を「社会主義への推転」期と評価することは、かなりミスリーディングに思える。しかし、これは、1989年以降の歴史展開を前提とした場合のはなしであり、同時代的な評価からすれば、1917年以降、すくなくとも1973年のベトナム戦争におけるアメリカの敗北ころまでは、社会主義は、資本主義の歴史的後継者としての地位を、世界のかなり多くの人々から承認されていたのである。 井上財政を考える場合には、やはり、同時代的な観点から、歴史的状況を解釈する必要がある。つまり、ロシア革命以降、資本主義諸国は、大なり小なり、社会主義革命発生という体制的危機に対処せざるを得なくなったのであり、その限りでは、時代は「社会主義への推転」期に入っていたのである。日本の場合、たとえばロシアや、ドイツ、オーストリアのように、現実に、労働者・農民が体制変革を目指した政治活動を大規模に展開するという、革命が差し迫った状況が生じることはなかった。とはいえ、第1次大戦期には、ロシア革命干渉のシベリア出兵も影響して米価が高騰したために、全国497市町村で米騒動が発生して、70箇所に軍隊が出動するという事件が起こり、寺内正毅内閣が倒れた。また、大戦中から戦後にかけて、労働争議と小作争議が、戦前とは桁違いの数で発生する状況にもなった。1922年には、もちろん非合法ながら、日本共産党も結成された。 このような情勢は、井上財政期には、資本主義か社会主義かという選択問題が、観念的イデオロギー的レベルに於いてではなく、現実の歴史的選択肢として存在するに至ったことを示している。社会主義革命が切迫したということではないが、革命の発生を抑圧する政策展開が必要になったのである。つまり、井上財政の時期には、社会主義に対抗して資本主義体制を維持することが、大状況「場」に規定された歴史的課題となったわけである。 B 中状況「場」に規定された初期条件・課題 中状況「場」は、資本主義の発展段階に対応した歴史的状況である。1929年頃の時期は、世界史上では、現代資本主義・国家独占資本主義あるいは20世紀資本主義の段階にあると考えられているが、その発展段階の内容規定については議論がある。また、日本がそのような発展段階に至ったか否かについても、論者の見解は区々である。この議論については、ここでその詳細を論じることは差し控えることにしよう[2]。筆者の見解によれば、日本資本主義は、第1次大戦以降、20世紀資本主義に向けての変質を進める[3]。 20世紀資本主義の特徴は、一般的には、政府による経済過程への政策的介入の多角化である。政策的介入を政策課題から大きく区分すれば、ひとつは階級間の宥和であり、もうひとつは資本蓄積の維持である。階級宥和政策は、完全雇用(賃金保証)・社会保障・弱者保護・労資関係の安定を政策目的とし、資本蓄積維持政策は、利潤保証(価値視点的再生産の維持)と生産力保証(素材視点的再生産の維持)を政策目的としていると考えることにする。 井上財政期には、社会政策の重要性が強く意識され、浜口内閣は、社会政策審議会を設けて、失業救済施設、労働組合法、小作問題、船員保険法の4項目を諮問した。社会政策という言葉は、ドイツから導入されて、1896(明治29)年には、社会政策学会の母体(研究団体、翌97年に正式に命名)が結成され、工場法や足尾鉱毒問題などが調査・論議されたから、歴史は古い。そして、1911年には、工場法が制定され、1916年に施行された。この原始工場法は、労働者保護立法ではあるものの、年少者・女子の就労時間制限・深夜労働禁止規定が甘く、紡績への適用除外を認めるなど、いわば、形式的立法であって、階級宥和政策とは言い難い。これが、第1次大戦後、1923年に改正されて、紡績業の女子深夜業禁止も1929年から実施されることとなったのは、国際労働機構ILOへの加盟という外圧があったのも事実であるが、やはり、新しい時代への対応と評価してよかろう。 つまり、内務省社会局・農商務省工務局労働課の新設(1920年)に見られるような、労働者対策の必要性の認識のうえに開始された政策的対応のひとつの現れであった。新しい政策対応は、労働者・農民対策としては、労働組合法案・小作法案の作成、小作調停法(1924年)・労働争議調停法(1926年)の制定、治安警察法改正(1926年)、自作農創設維持補助規則制定(1926年)と展開され、一般的対策としては、簡易生命保険法(1916年)・職業紹介所法(1921年)・健康保険法(1922年)・借地借家調停法(1922年)・普通選挙制度(1925年衆議院議員選挙法改正、同時に、治安維持法制定)として展開された。このような階級宥和政策の流の中で、井上財政期には、一層の社会政策強化が課題となったのである。 他方、資本蓄積維持政策は、利潤保証と生産力保証の両面から必要とされる状況であった。後に述べるように、金融恐慌(1927年)による財界整理がある程度進んだとはいえ、企業の利潤率は回復せず、日本企業の国際競争力も強化されてはいなかった。金本位停止下の積極政策がもたらした低生産性部門の存続、不良企業の残存は、解決されるべき大きな課題であった。 C 小状況「場」に規定された初期条件・課題 小状況「場」は、資本主義の発展段階のなかのある時期における歴史的状況である。井上財政が直面した課題は、まず、1920年代の日本経済が抱えた2つの危機であった。ひとつは、企業利潤率の傾向的低下に示されるミクロの危機であり、もうひとつは、国際収支の赤字累積に示されるマクロの危機である。1920年恐慌後、原敬・高橋是清政友会内閣は、積極財政を継続したが、これは、大きな打撃を受けた企業を救済する効果を持った。たとえば、第1次大戦中に、売上高で三井物産を超えたと言われる鈴木商店は、戦争終結時の手仕舞いの失敗から巨額な損失を抱えたが、救済政策で延命し、さらに、関東大震災の事後処理策であった震災手形を利用して破綻を回避した。このような不良企業の存在は、「財界の癌」と呼ばれ、その整理の必要が唱えられた。結局、1927年の金融恐慌のなかで、鈴木商店をはじめとする不良企業が破産して整理が行われた。同時に、不良債権を抱えていた中小銀行が淘汰されて、金融機構に内在していた不安定要因が、かなりの程度まで取り除かれた。しかしながら、景気は低迷を続け、金融恐慌で、預金の大銀行への集中が進んだが、資金需要は弱く、健全な融資先も乏しいために、大銀行では巨額の遊休資金が発生した。1920年恐慌以来、一貫して低下を続けた企業利潤率(使用総資本利益率)は、1928年下期には、6.2%の水準にまで低下した[4]。資本蓄積の危機=ミクロの危機は、克服すべき大きな課題であった。 国際収支の危機=マクロの危機も、1920年代10年間の貿易収支赤字の累積額、32.6億円という数字に示されるように深刻であった[5]。連年の輸入超過は、絹類輸出が伸長する中で発生したもので、内需の拡大にともなう食料品・肥料・衣料原料・木材などの消費関連財と、国際競争力の弱い金属・機械など生産財の輸入が巨額にのぼった結果であった。国際競争力の強化と国内の輸入品需要の抑制が、大きな課題であった。 国際競争力の強化は、マクロ・ミクロ両面の危機への対応策として目指される政策目標であった。競争力の劣位が目立つのは、金属・機械などの重工業部門であり、産業合理化の必要性が強調されていた。1920年代は、その前半期にやや重化学工業化が後退したが、後半期には、電力・電鉄・電機・化学主導でふたたび重化学工業化は進みはじめた。しかし、たとえば、1922年から1927年までの水力発電用水車新設数の65.5%、水力発電機の58.7%、火力発電用蒸気タービンの97.2%が外国製品で占められた事実[6]や、1928年の苛性ソーダ・ソーダ灰の輸入量は国内生産量の2倍を超えている事実[7]が示すように、重化学工業の国際競争力はまだ弱かった。企業合同やカルテルが、産業合理化の手段として推奨されたが、1920年代の独占形成は鈍く、独占組織の市場支配力も強くはなかった[8]。 低迷する日本経済の打開策として論議の対象になったのは、金解禁=金本位制への復帰であった。憲政会=民政党が金解禁即行論を、政友会が金解禁慎重論を唱える政治的構図のなかで、第1次若槻礼次郎内閣の進めた解禁準備が金融恐慌を引き起こすというアクシデントが発生し、政権に着いた政友会田中義一内閣は、金解禁を政策目標には掲げなかった。しかしながら、1928年6月にフランスが金本位制に復帰し、ひとまず再建国際金本位制が安定した構造を持つにいたると、残された日本の金解禁をめぐる思惑から、円に対する為替投機が激しくなり、横浜正金銀行の為替建値は、1928年中に91回も変更される有様になった[9]。田中内閣の三土忠造蔵相は、積極財政を継続しながら金解禁をおこなう方法を模索しながらその準備をはじめた。ところが、田中内閣は、張作霖爆殺事件の事後処理問題につまずいて総辞職することとなり、民政党浜口雄幸内閣が登場する。 田中内閣を崩壊させた原因は、金解禁問題にとっては、C時空の出来事である。つまり、三土蔵相の金解禁への取り組みを原因とする内閣交替だったわけではない。政友会の伝統的な対中国政策と金解禁問題は、無関係ではなく、原・高橋内閣が金解禁を選ばなかったのは、第1次大戦期に蓄積した正貨を中国への資本投資に備えて温存するという意図が、ひとつの原因であったといわれている。あるいは、二十一カ条要求の強制に対しての民族的反発に端を発した日貨排斥運動が、日本にとっての中国市場を狭め、日本の貿易収支悪化の一因となる状況に対応して、政友会が、対中国強硬外交を主張し、軍事費をふくむ積極財政路線を選んだことは、金解禁の尚早論ないし新平価解禁論に繋がることとなる。とはいえ、張作霖爆殺は、関東軍の独断専行であり、その行為の処罰を行政処分に留めざるをえなかったのは、内閣の軍部統制力の欠如であったのであるから、田中内閣の崩壊は、金解禁問題とは直接の因果関係はなかった。 三土蔵相からの訓電を受けて、クレジット設定に関して英米金融筋と接触し、新平価解禁の構想を胸にした津島寿一財務官[10]が、帰国の船上にいた時に、田中内閣は総辞職したのであるから、もし、昭和天皇の田中首相不信任の一言がなかったとしたら、事態は異なったかたちで展開した可能性がある。三土蔵相が、積極財政と金解禁の両立という、ほとんど不可能な課題に取り組んで時間が流れる中で、1929年10月24日、暗黒の木曜日を迎えていたら、金解禁は実施されなかったかもしれない。このように考えてみると、金解禁は、憲政会=民政党の政策主張からすればD時空の出来事ではあるが、浜口内閣の登場自体は、C時空の変化の結果であり、井上財政は、いわば偶然の産物ということになる。ここらが、歴史における必然と偶然の問題を考える好材料であるが、その検討は、別の機会に試みることとしよう。 井上財政が展開されるなかで、小状況「場」では、極めて大きな変化が生じる。1929年10月のアメリカ株式相場大暴落に端を発した世界恐慌の発生、その集中的表現であるイギリスの金本位制離脱(1931年9月21日)と、満州事変の勃発(1931年9月18日)である。このふたつは、井上財政からすれば、直接的な因果関係のない出来事、つまり、偶然的なC時空における事象であった。しかし、このふたつの出来事は、小状況「場」を一変させ、新しい政策課題を発生させることとなったのである。
3 井上準之助はどのように政策を決定したか A 井上準之助の履歴 井上準之助は、1869(明治2)年5月6日に、日田藩大鶴村に生まれた。ちょうど、松方正義が県知事をつとめていた時代である。以後の履歴は、第1表年譜の通りである。
第1表 井上準之助年譜
出典: 井上準之助論叢編纂会『井上準之助傳』同会、1935年。
B Arenaの状況 政策決定機構は、天皇が任命する国務大臣で構成される内閣が中心であるが、1918年に、米騒動で寺内正毅内閣が倒れた後の原内閣からは、いわゆる政党内閣の時代となり、第2次加藤高明内閣からは、立憲政友会と憲政会=立憲民政党の2大政党が交互に政権を担当するようになった。この日本政治史上まれにみる2大政党制は、両党の政策主張が、外交・財政経済・内政それぞれについて明確に対立し、実質的にも2大政党政治の特徴を色濃く示していた。 とはいえ、議院内閣制ではなかったから、政権交替は、かならずしも衆議院議員議席数に応じて行われたわけではない。原敬内閣(1918年9月〜1921年11月)は、1917年4月選挙で政友会が多数党となった状況を踏まえて登場し、1920年5月選挙でも、政友会が圧倒的多数を獲得して、高橋是清内閣(1921年11月〜1922年6月)まで政権を維持した。加藤友三郎・第2次山本権兵衛・清浦奎吾の3代の非政党内閣のあと、第2次護憲運動の結果として誕生した第1次加藤高明内閣(1924年6月〜1925年8月)は、1924年5月選挙で第一党となった憲政会が、政友会・革新倶楽部と連携して組織したいわゆる護憲3派連立内閣で、これが、選挙の結果によって政権を獲得した最初の内閣であった。第2次加藤高明内閣(1925年8月〜1926年1月)は、憲政会単独内閣であるが、憲政会単独では議会で多数を制することはできず、政友本党との妥協をはかっての政権運営をおこなった。加藤首相病死後、第1次若槻礼次郎内閣(1926年1月〜1927年4月)も少数与党で議会対策に苦戦し、片岡直温蔵相の失言がきっかけとなった金融恐慌のなかで、後に述べる枢密院の策謀によって総辞職に追い込まれた。田中義一内閣(1927年4月〜1929年7月)は、少数与党の政友会単独内閣として発足したが、1928年2月選挙で、1議席差で民政党(1927年6月、憲政会と政友本党の合同で誕生)を制して政友会が第1党となり、政権基盤を固めた。前述の昭和天皇発言で田中内閣が倒れて、浜口雄幸内閣(1929年7月〜1931年4月)が登場するが、民政党は、内部分裂で床次派などが脱党したあとで、議席数181(466議席中)の弱小与党であった。井上財政は、このような議会勢力配置のなかで政策決定されたわけである。金解禁実施後の1930年2月選挙では、民政党は、単独過半数の議席を獲得し、浜口首相が狙撃されて第2次若槻内閣(1931年4月〜12月)に代わっても安定多数の第一党として政権を維持した。安達謙蔵内相の反乱で第2次若槻内閣が総辞職したあとは、後述するような元老西園寺公望の裁断で犬養毅内閣(1931年12月〜1932年5月)が登場するが、政友会は、少数与党であった。1932年2月選挙で、政友会は、圧倒的勝利を収めて単独過半数を確保したが、5・15事件で、政党内閣の時代は終わる。 内閣・議会以外には、枢密院、軍部、元老が、制度化された機関として存在していたが、それらが政策決定にかかわる仕方としては、おおむね、表面に現れる部分よりは、隠された裏面での影響が大きかった。 民間では、資本家団体である日本経済連盟会、日本工業倶楽部、日本商工会議所、各地商工会議所、全国産業団体連合会、東京実業組合連合会、農業者団体である蚕糸業同業組合中央会、帝国養蚕組合などが、この時期の政策決定過程で、それぞれの意思表示をおこなっている。また、言論界では、とくに金解禁問題で、『東洋経済新報』が、主幹の石橋湛山の主張する新平価解禁論の論陣を張り、高橋亀吉、小汀利得、山崎靖純らがこれに加わった。 C Off-Arenaの状況 i) 井上準之助の内面 政策決定の舞台裏Off-Arenaに関しては、まず、井上準之助が、どのような価値意識と状況判断能力を持っていたかを検討する必要がある。井上準之助関係の基本資料としては、『井上準之助論叢』4卷、『清渓おち穂』、『井上準之助傳』の6冊が井上準之助論叢編纂会から刊行されている[11]。このほか、井上準之助を知る人の回顧談として、池田成彬、津島寿一、深井英五、青木一雄らの記録が残されている[12]。また、これらの資料を用いて井上財政を論じた著作には、中村隆英『経済政策の運命』[13]があり、関係論文も多い[14]。 井上準之助が、自己の行為を規制する基準としてどのような価値規範を持っていたかについては、注記した文献からさまざまな見方がうかがわれる。井上が人生の目標としていわゆる立身出世を選択し、出世を国家への献身と結びつけて考えていたことは、ほぼ一致した見方である。立身の場としては、金融界を選んだが、これは、独立独行の職業として弁護士を志望したところ、留学費用を実家が出してくれなかった結果であったという[15]。立身を政府官僚経由の道に求めるのが普通であった時代に、官吏になる考えは持たなかったところに井上の価値意識の特質が見られる。日本銀行・横浜正金銀行で、旧来の慣行や権威に縛られることを嫌い、新しい業務の執行方法や新しい制度を採用した話は、数多く残されている。新しいやり方を採用する場合の評価基準は、合理性・効率性にあったようで、ロンドン留学から帰った後の1900年稿の小論文「銀行員の心得一斑」では、日英の銀行員の比較を行いながら、日本の銀行員の非効率性を鋭く批判しており[16]、日本銀行時代の行員や業務の管理にこの批判が生かされている。 井上は合理的と評価できる原則や判断に対しては、それを固持する頑固さを持っていた。日本銀行営業局長としてこの頑固さを押し通したことが、松尾臣善総裁との軋轢を招いて、ニューヨーク代理店監督役への左遷の一因となったといわれる。とはいえ、『井上準之助傳』に序を寄せた結城豊太郎が、「全體として纏まって居れば、局部々々の不出来な事は多く問はなかった」[17]と述べているように、原理・原則を細部にわたるまで貫徹させることを求めたのではなかったようである。したがって、結城が「物事の處理−仕末を着くることのうまかったこと」と言うように、対立する見解・利害を調整する能力も高かった。第2次山本権兵衛内閣の大蔵大臣を辞任した後、「財界世話役」「渋沢第二世」と呼ばれた所以である。 では、池田成彬の人物評、「銀行をやって居る時分にはむしろ小心翼々として、どつちかというと我々から言えば消極的で弱かったですね。」、「民政党に入り政治をやり始めてからは、どうも性格がすっかり變つたと私は思うのです。」「非常に明敏な男だが、弱い人で、急に何だかばかに強い人のようになって来た」[18]という評価は、どのように理解できるのであろう。後段の「強い人」という評価は、緊縮政策への固執やドル買いへの対応を指しているから判りやすい。前段の「消極的で」「弱い人」とは、城山三郎が、ニューヨーク時代の井上を千代子夫人宛の私信によって描き出したように、私人としては理解できるが、帰国後10数年間の横浜正金銀行頭取・日本銀行総裁・大蔵大臣など公人としての井上についての評価としては分かりにくい。池田は、寺内内閣時代に、横浜正金銀行頭取だった井上が、勝田主計蔵相と衝突した時に、「首を切られるかも知れないから辭めたい」と相談に来たことを弱い事例として挙げている。しかし、これは、勝田蔵相がいわゆる西原借款の協調融資団への参加を横浜正金銀行に依頼したのを、井上が断固拒絶した事件であり、むしろ井上の「強さ」を示す事例である。親交の深い2歳年長の池田に、やや弱気を見せたということであろう。 池田が「弱い人」と評した銀行家井上準之助の活動を2度の日本銀行総裁時代について見てみると、目立つのは1920年恐慌と金融恐慌への対応である。第一次大戦後の最初の日本銀行総裁時代(1919年3月〜1923年9月)には、公定歩合を2回(1919年10月・11月)にわたって引き上げ、バブル景気に警告を発する発言をおこなった[19]。この警告が的中して反動恐慌が起こると、井上総裁は、救済融資を主導した。この時、日本銀行は、それまでの方針を変えて、銀行への支払準備資金特別融通ばかりでなく産業ごとに救済資金を特別融通するという積極的な救済措置を採用した。これは、のちに深井英五が日銀の救済機関化の始まりと見たような[20]、日本銀行の変質であり、井上総裁が選択した道であった。井上は、1925年に東京商科大学でおこなった連続講演の中で、この救済措置を、「これまでの救済の方法で行けば、機械が急に運轉が止まったから、何處に故障があるか分らぬが、油を持つて行つてぱつと打掛けるというやうなことをしたのでありますが、今度はさういふ必要は無い、此の機械が動かぬならば、何れの場所に油の切れた處があるか、斯ういうことを見て其の切れた場所に油を注ぐが本當であらう。」[21]と考えたと説明している。反動恐慌が深刻でかなりの期間続くと見た井上は、旧来の慣行を破って、新しい救済方法を実行したのであった。このような措置をとる井上を、池田が「弱い」と評価したとすると、それは、@通貨価値の維持という中央銀行の本来の役割から逸脱した、A救済措置を取るに際して公正な選択が歪められた、というふたつの観点のいずれかからの評価と考えられる。民間銀行家であり反動恐慌対策に苦労した池田が、@のような観点からの評価を下したとは思えないから、Aの観点からの評価で、井上が人間関係から特定の人物への配慮をはかったという批判であろう。当時、茂木惣兵衛との関係が取りざたされ、『井上準之助傳』では井上が茂木家の顧問であったことは否定されているが、茂木家と機関銀行の七十四銀行の整理に井上が尽力したことは事実とされている[22]。高橋是清蔵相が一度は拒否した整理案を、原敬首相を動かして実現させたのであるから、井上の肩入れはかなりのものであった。ここらが、池田に、人間関係に「弱い人」と感じさせたのかも知れない。 二度目の日銀総裁(1927年5月〜1928年6月)としての井上準之助は、高橋是清蔵相の要請をうけて就任し、金融恐慌の後始末に当たった。井上総裁は、すでに制定されていた日本銀行特別融通及損失補償法に基づいて、特別融通を実行し、期限(1928年5月)までに総額約7.6億円を114行に貸し出した。特別融通の決定は、勅令の規定する特別融通審査会(会長日銀総裁、委員大蔵省銀行局長・理財局長、日銀副総裁・理事)が行うのであるから、この時の井上には、「強い人」「弱い人」との評価は当てはまらないであろう。しかし、井上は、度重なる特別融通について否定的な反省の発言をしている。1928年1月の東京銀行倶楽部新年宴会挨拶では、損失補償法について「日本銀行としては本來の性質からいふと遺憾此の上もありませぬが、日本の金融界の大騒ぎを鎮める爲めに、騒ぎを根本的に整理する爲めに、遺憾ながらさういふことになつて居る」[23]と述べている。また、1928年5月の日本銀行本支店事務協議会では、「大正九年来日本銀行の採り来つた所は其本来の立場から云ふと遺憾な事が多い、殊に大正十二年即ち震災後に変則な取扱の最も顕著なものがある、銀行資金の夥しい固定は此度の補償法を機会に大体整理を為し得たが此間に於ける日本銀行の態度は中央銀行として忍びざる所であつたので茲に態度方針の一変を要する」「今後日本銀行は成規の取引以外はやらない積りで夫れが為め仮令銀行が潰れる様なことがあつても已むを得ない、又無理に貸付を行へば自分の立場を失ふに至るのでもう整理救済はやらぬ方針である」と発言している[24]。これらの発言は、中央銀行の節度を守れなかった自分の「弱さ」への痛切な反省とも言えよう。 井上の反省発言の中にある震災後の変則的取扱についても、井上は大蔵大臣として、支払延期令、震災手形割引損失補償令の発令をおこなった当事者である。つまり、1920年恐慌、関東大震災、そして金融恐慌に際して、日本銀行が実施した救済融資は、すべて、井上準之助の関わるところだったのであり、それがもたらした結果に対して、井上は、深刻な反省を強いられたことになる。では、反省すべきは、どのような結果であったろうか。井上は、まずは、中央銀行としての本来のあり方から見て「遺憾」であったといっている。これは、特に、金融恐慌後、日本銀行の特別融通が固定化し、通貨現在高が高水準(1926年末20.3億円、1928年末22.0億円[25])に留まり、市中銀行の日本銀行預金額(1926年5月6189万円、1928年5月5億1568万円[26])も大きく、日本銀行は通貨の調整能力をほとんど喪失した状態に陥ったことへの反省であった。 しかし、井上は、自らの反省とは別に、1920年代の日本経済を厳しく批判している。前に引用した1925年の東京商科大学講演のなかで、井上は、「外國に行つて、日本の整理の状態と比較して見ますと、日本は非常に劣ります。戰争中に斯くの如き經濟界の変動に處して損をしたといふことは、これは世界を通じての事實であります。儲けた人もあれば損をした人もある。併しながら整理に就ては、もう日本は實に外國と比べますと比較にならぬのです。言語道斷、實に愧入る状態であります。」[27]と語っている。また、金融恐慌が一段落した1927年9月の東京銀行集会所における日銀総裁としての講演でも、「此處で禍根を殘してはいかぬので、根本的に此の時機に整理して、日本の此の經濟界を立直すといふことを覺悟して行かなければならぬと、私は思ふのであります。」[28]と話している。1920年恐慌後も、さらに金融恐慌後も、日本経済の整理が進んでいないことを問題としているわけである。整理が進んでいない状態は、後に、金解禁方針を述べた論文では、「大戰後約十年にして尚此の餘風去らざるは、金輸出禁止を繼續し、之れによりて虚僞の財政、虚僞の事業経営、虚僞の私生活に対し一種の保護を與へて居つたことが、其の主因の一であると云はねばならぬ。」[29]と、財政・経営・消費の面で、「虚僞」つまり本来あるべき姿とは異なった状態として述べられている。1920年代の日本経済の状態については、別に検討したことがあり、井上が、「虚僞」と呼んだものが、金本位制停止下の積極政策がもたらした結果であったことはほぼ明らかである[30]。 ところで、井上は、1920年代を「虚僞」の経済と批判するが、それと、まえに見たような日銀の救済融資を「遺憾」とする反省とは、無関係であろうか。井上が「虚僞」と言う積極財政・放漫経営・過大消費は、政友会が主導した政策の帰結であると同時に、井上が関わった通貨政策の産物でもある。日本銀行が、前例をみない大規模な救済融資を繰り返さなかったならば、すくなくとも「虚僞」の放漫経営は破綻して、財界整理は進み、一層深刻化したであろう不況は、「虚僞」の消費を強制的に抑制したにちがいない。井上は、公開の場では、「虚僞」の経済が出現した原因として、政府の政策の不適切さ、企業経営者の怠慢、国民の虚栄などを指摘しているが、おそらく内面では、通貨政策の及ぼした影響を「遺憾」に思っていたのではなかろうか。 吉野俊彦は、井上総裁を論じて、「恐慌救済のための資金放出にのみ終始したとするならば、井上の名前は日本の金融史の上で、それほど残らなかったかもしれない。ところがこれを是とするものも非とするものも、彼が金本位制の復活と、その擁護とのため死をもって戦ったという事実あるがゆえにこそ、彼の政策に一つの筋がとおったことを認めざるをえないのではなかろうか。」[31]と書いている。吉野は、筋がとおったというのは「金本位制度を復活することによって、財界に合理化を要請しまた国民生活に貯蓄の重要性を認識させ、日本経済全体としての国際競争力を高め、第一次大戦終了後、万年赤字をつづけて来た国際収支の改善をはかり、それを基礎にして日本経済の再建をはかることは、たんなる跡仕末的対策の連続とは異なるからである。」と説明している。しかし、この説明は、少しおかしい。救済融資を行うことと、金解禁を行うことは、ただちにひとつの「筋がとおった」政策選択と見ることはできない。救済融資は「虚僞」をもたらした一因であり、金解禁は「虚僞」を正常に引き戻す政策であるから、ベクトルが異なる。「筋がとおった」と見ることができるとすれば、それは、井上が、「虚僞」をもたらしたことを「遺憾」であると反省したうえで、その「虚僞」を否定するべく行動したと理解する場合である。 「虚僞」に加担した「弱い人」が、その深い反省の上に、「虚僞」を放逐するために断固として緊縮・金解禁を遂行する「強い人」となったとすれば、「一つの筋がとおった」話であるし、「性格がすっかり變つた」(池田)ことも理解可能になる。Off-Arenaとしての井上準之助の内面については、この程度のことが推測できそうである。 ii) 政党・枢密院・元老 政党政治の時代であるから、Off-Arenaにおいては、政党の利害対抗が重要な政策決定要因である。政友会が積極外交・積極財政を、憲政会・民政党が協調外交・緊縮財政を主張した背景にどのような利害状況が存在したかについては、未解明な部分が多い。政友会と三井、憲政会・民政党と三菱の関係から、政策の差異を説明する仮説[32]も提起されているが、あまり説得力はない[33]。たとえば、幣原喜重郎は、岩崎弥太郎の女婿で、党員にはならなかったが、憲政会・民政党の協調外交の担い手であった。しかし、12歳年長の加藤高明は三菱出身で、かつ岩崎弥太郎の女婿であるから、同じく協調外交を掲げたかといえば、そうではない。対華二十一カ条要求を強行したのは、立憲同志会(憲政会の前身のひとつ)総裁として大隈重信内閣の外務大臣を務めた加藤高明、その人であった。階級政党の場合は別として、一般政党の政策主張を、特定の利害集団と関係付けるには、ケース・バイ・ケースの検討が必要で、概括的な一般論は成立しそうにない。政友会と憲政会・民政党の経済政策に関しては、それぞれの主導的党員の個性が強く影響していると見ることができる。政友会の高橋是清は、工業生産力伸長のための積極財政論者で、積極外交論とは異なるが大陸政策の観点から金解禁反対論を唱え、憲政会・民政党の浜口雄幸は、大蔵省出身者らしく、財政の健全化・緊縮財政を主張して、それぞれの政党の政策基調におけるコントラストを強める役割を果たした。 枢密院は、大日本帝国憲法に規定された天皇の諮詢機関で、違憲立法審査権を持つ「憲法の番人」役であったが、特に緊急勅令・条約の審査権をとおして、政府の政策に介入する力能を持っていた。第1次若槻内閣が、金融恐慌の沈静化のために台湾銀行への救済融資を緊急勅令で行おうとしたとき、それを否決して内閣総辞職をもたらしたのが枢密院であった。枢密院には、伊東巳代治、平沼騏一郎(副議長)など、政友会寄りで、幣原外相の協調外交に批判的な勢力が存在していた。枢密院の精査委員会(委員長平沼)は、緊急勅令案を否決したので、倉富勇三郎議長は、若槻首相に緊急勅令案の撤回を勧告したが、若槻首相は、強行突破を図って枢密院本会議開催を要請した。1927年3月17日、昭和天皇臨席の枢密院本会議が開催され、激論のすえ、緊急勅令案は11対19で否決された。閣僚も拠職上、枢密顧問官となっていたが、この時は、閣僚12名で1名(文相)が欠席だったから、政府側以外の枢密顧問官は出席者全員(欠席者4名)が反対したことになる。席上、伊東巳代治は、「独り本案に対して現内閣の措置の不当なるのみならず対支問題に対する措置は如何であるか、事毎にその宜しきを失し国威失墜を招いたことはわが国民の到底黙視する能はざるところである」「速かに罪を闕下に謝し骸骨を乞ふべきではないか」と政府を弾劾する発言をしたのである[34]。枢密院の伊東・平沼らは、浜口内閣のロンドン海軍軍縮条約締結に際しても、批准を阻止する動きを示したが、これは失敗した。この時にも、裏では、政友会が政権交替を狙って画策していたのであるから、政党はみずから議会政治を否定するような行動パターンを取っていたわけである。 元老は、法律上の制度ではなく、天皇が後継首相指名の際に諮問を発する人物(首相・大臣等経験者)が元老と呼ばれた。大正天皇は、山県有朋(1922年没)・松方正義(1924年没)・井上馨(1915年没)・大山巌(1916年没)・桂太郎(1913年没)・西園寺公望(1940年没)を元老としたが、松方没後は、しばらくの間、西園寺ひとりが後継首相選定に当たった[35]。西園寺は、政党政治の支持者で、第2次加藤高明内閣以後、犬養内閣までは、2大政党の党首を交互に首相に選定した[36]。この選定で西園寺が最も悩んだのは、第2次若槻内閣の後継者であった。彼は、井上財政と幣原外交を支持していたし、金再禁止見込みのドル買い投機が巨額に上っていることも知っていたから、連立内閣を主張して閣議出席を拒否する行動にでた安達謙蔵内相の辞表だけを受理して若槻に第3次内閣を組織させる道も考えた。しかし、西園寺は、政友会総裁の犬養毅を後継首相に選んだ。原田熊雄によれば、「官僚出身の一部の先輩及び軍部に一種の陰謀のあることなどを承知してをおられる公爵としては、これと政友会とが合流して、側近攻撃、宮中に對する非難中傷が起ることは、今日の場合、頗る憂慮すべき結果を惹起しはしないか、といふ懸念が、相當強く公爵の頭を支配してゐたわけである。」[37]という理由であった。西園寺は、軍部のなかに天皇批判の空気があり、その後ろに極左がいるという懸念を持っていたようである[38]。西園寺は、天皇批判を回避するために、あえて民政党内閣を諦め、井上財政も幣原外交も捨てたことになる。金本位制は、後に検討するように、すでに限界点に達していたが、直接的には、西園寺のこの選択によって放棄されたと言えよう。 iii) 軍部・財界・海外勢力 西園寺に苦渋の選択をさせた軍部の圧力は、張作霖爆殺事件(1928年6月)を関東軍が起こしたときから強まり、ロンドン軍縮条約問題(1930年4月調印、10月批准)で海軍内部にも急進派が台頭し、やがて、陸軍のクーデター未遂事件(1931年3月、3月事件)から、関東軍による柳条溝事件(1931年9月18日)、朝鮮軍の独断越境進軍(9月21日)と発展し、再度の陸軍クーデター未遂事件(1931年10月、10月事件)と続いた。圧力の発生源は青年将校であったが、軍上層にも同調者がいて、陸軍内部は、軍政面も軍令面も中央の統制が不可能に近い状態となっていた。陸軍クーデター未遂事件には、民間右翼も関わりを持ち、10月事件には、のちに井上準之助・団琢磨を暗殺した血盟団の組織者井上日召も参加していた。 財界では、前に挙げた経済団体がArenaで意思表示を行っていた。Off-Arenaでは、昭和初期には、ポスト渋沢の財界世話役として和田豊治・井上準之助・郷誠之助が活躍したと指摘される[39]。財閥では、三井で団琢磨(三井合名)・池田成彬(三井銀行)、三菱で木村久寿弥太(三菱合資)・各務謙吉(東京海上保険)・山室宗文(三菱銀行)、住友で湯川寛吉(住友合資)、安田で結城豊太郎(安田保善社)、古河で中島久万吉(古河合名)、紡績業では、武藤山治(鐘淵紡績)・宮島清次郎(日清紡績)・阿部房次郎(東洋紡績)、そのほか、山本条太郎(満鉄)、藤山雷太(東京商工会議所)、藤原銀次郎(王子製紙)、大川平三郎(樺太工業・富士製紙)、若尾璋八(東京電燈)、稲畑勝太郎(大阪商工会議所)などが、Actorとして表に裏に影響力を発揮した。金解禁をめぐるこれらの財界人の動きについては、多少のところまでは検討したことがある[40]。 海外の利害関係者としては、アメリカのJ.P.モルガン商会のパートナーで事実上の経営責任者であった、ラモントThomas W. Lamont(1870年生、1948年没)が最も大きな存在である。国際金融界の第一人者であるラモントは、関東大震災後の復興公債を引き受けた功績で、勲二等旭日重光章を受勲したが、金解禁に際しても、日本へのアドバイザー役・支援役を務めた。田中政友会内閣の三土蔵相からの電報でクレジット設定の下交渉を行った津島寿一財務官は、ラモントらから、新平価解禁のアドバイスを受けたのである[41]。井上蔵相の旧平価解禁方針にしたがって、クレジット設定のために渡米した津島財務官にたいして、ラモントらは、新平価解禁を忠告したのに実力以上の旧平価での解禁をおこなうことなどを理由にクレジット設定に難色を示した。しかし、最終的には、ラモントが井上を信頼してクレジットは成立したのである[42]。井上準之助の国際金融界における評価は、極めて高く、英米の金融関係者との信頼関係が、金解禁政策を可能にした側面があったわけである。 D 政策の選択 i) 初期の政策選択 a. 緊縮財政・旧平価金解禁 1929年7月2日に井上準之助は浜口雄幸民政党内閣の大蔵大臣に就任した。この直前の5月30日には、井上は、団琢磨・郷誠之助とともに三土蔵相を訪問して、金解禁について「昨今の如き財界の状態の下においては輕々にこれを實行することの出來ないことは勿論である」と発言をさせていた[43]。そこで、「さきに三土蔵相に対し金解禁非即行を言明させた井上準之助氏が新蔵相として入閣したことからいって、金解禁は早急には實現しないであらうとは財界一般の一致せる觀測であった。」[44]というふうに見られた。ところが、井上蔵相は、金解禁断行の姿勢を強く示したから、世間では井上が「豹変」したと驚いた。小汀利得は、「七月二日に井上さんが大蔵大臣になった。その三、四日前に信州松本で井上さんは、『今頃金解禁することは肺病患者にマラソン競争をさせるようなものだ』と演説したことを聞いておった。ところが九日には金解禁をやると出たから、先生の所謂政治家振りに驚いてしまいました。」[45]と語っている。では、井上は、「豹変」したのであろうか。 井上準之助の発言をさかのぼると、彼は一貫して金解禁論者だったことが分かる。初めての大蔵大臣を退いて貴族院議員となっていた1925年2月の東京商科大学における連続講演で、井上は、「亞米利加の金輸出解禁の時代に日本が解禁しなかつたのは、政治上の理由があるから宜しいとしても、大正十一年の華盛頓會議が出來た時、殊に大正十二年の為替相場も元に恢復し、貿易も改善した時に金の輸出解禁をやらなかつたといふことは、これは非常な失策であつて、理窟が立たぬ事であると云はねばなりませぬ。」[46]と言っている。第一次大戦直後に金解禁を行わなかったのは「政治上の理由」、つまり高橋是清蔵相の政治的判断として了解するが、加藤友三郎内閣の市来乙彦蔵相が金解禁をしなかったことは失策だったと批判している。これは、1923年4月頃に円相場が100円=49ドルに回復した時が金解禁の好機であったとの判断である。市来蔵相(1922年6月〜1923年8月)が、それまでの政友会的積極政策を緊縮政策に転換させた背景には、日銀総裁だった井上準之助の発言と日本経済連盟会の設立(1922年8月)があった[47]。井上は、1920年恐慌後も国際比較の上で日本の物価が割高である状況にたいして、財政の緊縮が必要であることを強調していた[48]。消費節減・財政緊縮によって貿易収支が均衡し為替相場が回復したところで金本位制に戻るというのが井上の構想であった。ところが、市来蔵相が、貿易収支の均衡回復の時機を待つうちに、加藤首相が病死し(1923年8月24日)、山本権兵衛が組閣中に関東大震災が発生して、井上準之助が蔵相に就任して震災後の処理を担当するが、為替相場は暴落して金解禁は不可能になったのである。井上の山本内閣への入閣は、震災発生直前に要請されており、大震災が起こらなければ、井上準之助蔵相の手で金解禁が実行された可能性は大きい。もっとも、これには、山本内閣退陣の原因となった虎の門事件(摂政宮狙撃事件)が起こらなかったらという、もうひとつの歴史的イフが仮定されなければならないであろう。ともあれ、このとき、井上準之助は、緊縮財政・金解禁の構想を持ちながら、震災事後処理のための財政拡張・金輸出禁止継続という、逆向きの政策を実行せざるを得なかったのである。 大震災の翌年1924年には、円為替は38.5ドルにまで下落し、円価維持のための金解禁が提起された。井上は、1926年5月の京都帝国大学における連続講演の中で、1924年時点の円為替維持のための金解禁論は机上の空論であると断じて、その時期の金解禁は不適当であったと判定した上で、円為替が回復して48ドルに近づいた現在は、金解禁を行うための準備時代であると語った[49]。また、1926年10月には、東京銀行倶楽部晩餐会で、「昨年の初めに此處に参りまして金輸出解禁反對論を唱へたのであります。然るに今年の五月に京都大学に於きまして講演を致しました頃から、私は金解禁論者になつたのであります。同じテーブルで私の變説ぶりを御覧になるお積りの皮肉であらうと心得るのでありますが、私は決して變説したのではありませぬ。」と前置きしてから、「金の解禁をする其の準備が出來たならば、直ちにすべし。」と端的に結論を述べている[50]。若槻内閣・片岡蔵相が緊縮政策を進める時期の金解禁即行論である。ところが、この半年後には、金融恐慌が起こって、井上準之助は、再度、日本銀行総裁として恐慌処理の救済融資を担当するめぐり合わせになってしまう。 1928年5月の全国手形交換所連合会では、井上日銀総裁は、日本銀行の通貨調節力が欠ける状況を述べて、「斯かる状態の下に於きまして俄に金の輸出解禁を實行致しますことは、其の結果を考へますと懸念無きを得ないのであります。」[51]と解禁尚早論を表明した。金解禁は、日本銀行の救済融資の回収が相当程度まで進んでから実行すべしという提言である。日銀総裁を1年で退いてからは、1929年4月の新日本同盟例会で、政友会の積極方針を批判しながら、金融恐慌後の日本財界は、「癌腫は無くなったが、身體そのものは非常に傷んで居る」から、「金の解禁をしてしまって、それから日本の財界を整理しようといふ非常手段には日本の財界はよう堪へませぬ」と語っている[52]。そして、「今の政友会内閣といふものは金の解禁をするのには丁度反対の方向に走る政策を持つている」、「田中さんの顔は財政緊縮が出來ない顔であらう」、「爲めに金の即時解禁は現在は絶對的に出來ぬ」という判断を、井上は示した。金融恐慌から田中内閣の時期には、井上は、金解禁は尚早であるとの判断を持ち、三土蔵相と会見してクギを差す役割を、団琢磨・郷誠之助とともに務めたのである。 尚早論を主張する演説では、小汀利得が紹介した「肺病患者にマラソン競争」という譬えも、井上が実際に用いたのであろう。しかし、井上は、「豹変」したのではなかった。ここまで見てきたように、井上は、一貫した金解禁論者であったが、経済状況と政府の政策姿勢に応じて、即行論あるいは尚早論を主張したのであった。したがって、緊縮政策を標榜する浜口民政党内閣が登場すると、自らの手で金解禁を実行するべく、大蔵大臣への就任要請を受けたのである。井上が強力に押し進めた緊縮財政と旧平価金解禁の展開過程については、すでに多くの研究が明らかにしているから、ここでの論述は省略して良かろう[53]。解禁に際して、新平価論をしりぞけて旧平価解禁を選んだ理由に関しては検討の必要があるが、この点は、後に取り上げることとする。 b. 産業合理化・階級宥和 浜口・若槻内閣は、緊縮=金解禁政策を実行するとともに、産業合理化と、労働組合法案・小作法案など社会政策にも力を入れた。産業合理化政策は、臨時産業審議会(1930年1月設置)での検討を経て、臨時産業合理局の新設(1930年5月)、重要産業統制法公布(1931年4月)と進められた。労働組合法案と小作法案は、1931年の第59回帝国議会に提案され、衆議院は通過したが、貴族院で審議未了廃案となった。労働組合法案に関しては、やや詳細に検討したことがあるが[54]、産業合理化問題と小作法制定問題については、未検討であるので、ここでは、事実のみ確認するに止めたい。 これらの問題について、井上準之助がどのような意見を持っていたかは、あまり明確ではない。産業合理化に関連しての発言は、1930年4月の衆議院における財政演説などに散見できる。この財政演説では、「此の時期に於て各事業に就き合理化を圖り、財界全般の整理を行ふことを最も急務とするのであります。」[55]とのべている。合理化の内容としては、不当な競争を止めて生産調整を行って製品価格の安定を図ること、事業の内部の整理などを挙げている。此の時期の産業合理化は、臨時産業合理局の第一部が規格統一・工程管理・財務管理を、第二部が企業統制を担当したように、狭義の合理化とカルテル・トラスト促進というふたつの内容を含んでいたのであり、井上蔵相は、この両方の合理化が急務であると発言したのである。財政演説の翌月には、大阪倶楽部の経済更新会演説で、造船業の合同、電力業の統一を、産業合理化の具体的提案として挙げている[56]。当時、商工省の工務局長だった吉野信次は、海外の産業合理化事情を調査するための海外出張を商工大臣に許可してもらったところ、井上蔵相が、「これから政府が産業合理化の方策を実行せんとするとき、その責任者たる局長を洋行させるとはなにごとか、まかりならんと言ってきて、ぺしゃんこになった」と回想している[57]。井上蔵相は、産業合理化にかなり期待していたようである。 労働問題については、1930年6月の日本貿易協会例会演説と同年11月の関西銀行大会演説で、失業対策には論及しているが、労働組合法案についての発言は見あたらない。井上蔵相は、失業対策として、失業保険制度を設けることには反対の見解を示しながら、雇用機会を増やす土木事業などの失業救済事業のために地方公共団体の起債許可条件を緩和する方針を取り、さらに必要な場合には政府が預金部引受による公債発行で救済事業をおこなう覚悟であると語っている[58]。そして、昭和6年度予算では、緊縮方針の中でも、一般会計・特別会計を通じて3550万円の失業救済公債が預金部引受で発行されたのである。 農村問題では、閑居時代の1926年5月に名古屋銀行倶楽部の晩餐会で、勧銀・興銀合併問題に関説して、「小作争議は今日日本の社會問題中解決の困難なるもので、普通の工業上の労働争議以上に遙かに困難な問題であるが、其の解決としては、世界各国の例をとりましても、日本は今後自作農といふものを殖やす、寧ろ自作農制度にするといふことが最も良くはないかと思ひます」と述べ、日本勧業銀行が農村銀行として努力することの必要性を語っている[59]。このほかには、小作問題への言及は見あたらない。 ii) C時空変化後の政策選択 a. 世界恐慌 井上準之助蔵相が、金解禁を1930年1月11日とする大蔵省令を出したのは、1929年11月21日であった。すでに、10月24日、暗黒の木曜日を過ぎていたのであるから、今日から見ると、世界恐慌が始まろうとする時に、金解禁に踏み切ったのは、重大な判断ミスとなる。しかし、ニューヨーク証券市場の暴落が、来るべき世界恐慌の契機になるとは、当時は、ソ連の世界経済世界政治研究所のヴァルガ所長くらいしか予想していなかったのであり、一般には、株式バブルが弾けて、アメリカ経済は正常な状態に戻ると考えられていた。バブル期に上昇した金利が低下することは、輸出解禁後のアメリカへの投資による金流出を少なくするから、金解禁には、むしろ好条件と見なされたのである。井上蔵相も、1929年12月の慶應義塾大学での講演で、米英の金利が下がって日本の金利よりも低くなったので金流出の懸念は「非常に都合好く解決して、今日は日本の金が放資の爲に巨額に海外に出て行くことはありませぬ」と述べている[60]。しかし、アメリカの株式暴落にはじまる恐慌の影響は、1930年5月の生糸価格崩落ではっきりと現れてきた。この時期に、井上蔵相は、日本貿易協会で、「斯やうな世界を通じた深刻な不景気を目の前において、之れに對して日本だけが此の不景気の影響を免れて、唯一人景気に變るやうな案がありましょうか」、「名案は容易に出ない」と述べ、緊縮政策を続けることしか日本経済の立て直しの道はないと語りかけている[61]。また、この一年後、1931年4月の全国無尽集会所総会での講演では、世界不況の到来について、「それが分からぬやうなぼんくらは役に立たぬものであるといふ非難もあります。併しながら知らないこと、先の見えなかつたことは人間にあり勝の事であつて、隠すこともなく申上げますと、昨年から段々世界的に不景気が來るが、去年の五月から九月まで來たやうな經濟界の急激な變化があらうとは、吾々は分らなかったのです。」と率直に述べ、不景気は急には回復しないだろうが、今後悪くなることは無く「段々好くなるのぢやないかと思います」とやや楽観的な見通しを語りながら、緊縮・整理継続の必要性を説いている[62]。そして、「人間の力といふものは、天然自然の力に反した場合は非常に力の弱いものであります」、「人爲的にやりますことは非常な害が殘つて利益がありませぬ」と言い、フーヴァー大統領について、「何もやらずにおいたならば亞米利加の改善も早かつたものを、今日は各種の救濟策を講じてそれが皆不成功に終つた。害だけが茲にずつと殘つて來て居る。」と批判している。 結局、井上蔵相は、世界恐慌の到来に対しては、それが自然の流れである以上、人為的な対応は有害無益であるという観点から、積極政策への政策転換を要請する声には耳を傾けずに、緊縮政策を貫いたのである。 b. 満州事変とイギリス金本位制離脱 1931年9月18日には、関東軍が柳条溝事件を起こして満州侵略を開始し、続いて、21日には、イギリスが金本位制を停止した。満州事変は、それまで井上蔵相が努力してきた軍事費縮減を不可能にし、緊縮財政の維持が困難となりそうな状況をもたらした。若槻内閣は、軍事行動の拡大を阻止しようとしたが、関東軍の突出を事後的に承認した軍部を抑えることはできなかった。 イギリスの金本位制停止に際しては、井上蔵相は、イギリスと違って日本には短期外資が投資されてはいないし、貿易も均衡化に向かっているから、金の大量流出が起こるおそれはなく、ただちに金輸出を再禁止する必要はないと判断した。そして、金輸出再禁止を予想したドル買い思惑に対しては、金本位制堅持の方針を掲げて、しばらくの間は、横浜正金銀行に無制限のドル売りに応じさせた。日本銀行は、10月6日に日銀公定歩合を引き上げて、ドル買い側の資金調達の抑制を図った。しかし、その後もドル買いは続いたので、10月14日には、井上蔵相は、土方久徴日銀総裁・深井英五日銀副総裁・児玉謙次横浜正金銀行頭取と協議して、ドル為替の売却を貿易決済に制限することとし、さらに、11月4日からは実需であることが確認できない輸入為替取り組みも拒否することとした。これらの措置によって、金本位制の機能は制約され、実質的には為替管理に近い状態が出現した。その上に、日本銀行は、11月5日から公定歩合をさらに引き上げて、ドル為替先物予約の解け合いを促進させようとした。井上蔵相は、断固としてドル買いと対決したのである。 1931年11月10日には、政友会代議士会が金輸出の即時再禁止を決議するに至ったが、井上蔵相は、同日、ただちに声明書を発表して、金輸出再禁止が「一部ノ産業一部ノ人々ニ一時的ノ利益ヲ与フルニ過ギナイノデアッテ、之ガ為経済ノ基礎ハ破壊セラレ一般民衆ハ非常ナ不利益ヲ蒙ルコトトナル」[63]と金本位制の維持方針を明らかにした。ところが、この頃から、安達謙蔵内相が、連立内閣構想を唱えはじめた。金輸出再禁止を公表した政友会との連立には、井上蔵相と幣原外相が強硬に反対し、民政党内閣には大きな亀裂が生じた。ドル買いとの戦いは、横浜正金銀行が先物の解け合い申込期限を12月15日までとしたことで、いよいよ大詰めにさしかかってきた。安達内相は、12月10日の閣議で連立内閣結成を主張したが、合意を得られないと自宅に帰って閣議への参加を拒み、単独辞表の提出も拒否した。若槻首相は、11日の閣議で総辞職を決定し、再度、首相に指名されることを期待したが、前述したように、元老西園寺は、政友会総裁犬養毅を次期首相に推薦したのである。12月13日に成立した犬養内閣は、即日金輸出を再禁止し、ドル買い側は凱歌を上げることとなった。安達内相とドル買い勢力との関係が取りざたされたが、真相は不明のままである。 金輸出が禁止された後も日本銀行の金兌換は制限されながらも続けられたが、12月17日には、緊急勅令で日本銀行券・朝鮮銀行券・台湾銀行券の金貨兌換が停止された。井上準之助が身を賭して守ろうとした金本位制度は、ここに終焉の時を迎えたのである。 4 井上財政をどのように評価すべきか このように展開された井上財政を評価してみよう。ここでも、先に確認した初期条件と歴史的課題に照らして、政策の合理性を評価する方法をとり、はじめに井上財政の初期の政策を検討してから、C時空変化後の政策の評価をおこなうこととする。 A 初期政策の合理性 i) 大状況「場」に規定された初期条件・課題との関連 社会主義が出現した時期の資本主義政府の政策目標は、資本主義体制の維持であるが、その政策手段として、井上財政は適切であったろうか。この時期に積極的に検討された社会政策は、階級宥和政策として、適切に機能する可能性はあった。城山三郎は、「転向した人ですけれども、共産党の当時の大物だった人に会って聞いたときに、浜口内閣がやりだしたことを見て、『共産党のやることがなくなっちゃった』と党内で話したことがあるといっておりました」と経験談を語っている[64]。しかし、井上蔵相の緊縮政策は、中長期的にはともかくとして、短期的には不況をもたらし、労働条件の低下や失業の増大を招くから、階級宥和とは逆方向の政策である。 井上準之助が、現実の社会主義・共産主義に対して持っていた評価は、かなり低い。井上は、読書家であり、とくに英語文献をよく読んでいた。蔵書の中には、ウエッブ夫妻の著作も含まれていたから、イギリス労働党や労働運動についての知識も持っていたにちがいない[65]。井上は、1926年5月の講演で、政治的な「デモクラシー」は世界的な風潮であるが、「經濟上のデモクラティックな政策がどうして行はれるかといふことは、各國とも全く解決がついて居らぬのであります。御承知の如く、露西亞は共産黨の政策を行つて見たのですが、之れは全然失敗で行はれなかつたのであります。即ち經濟上の今までの諸制度を破壊して共産主義を採つて行かうといふ考へであつたのでありますが、之は試みて見て成功しなかった。併しながら、歐洲戰争以來現にさういふ思想といふものが非常に廣く行はれて居るのは事實であります。」と述べている[66]。また、世界恐慌のなかで、労働党政権下のオーストラリアが、いかに深い経済的困難に陥ったかについても、しばしば論及している[67]。現実のソ連共産主義や英・豪労働党の社会主義は失敗したという評価になっているのであるが、「さういふ思想」の高まりは認識している。井上の秘書役で蔵書の整理をした清水浩は、P.アインチッヒの著作に、井上が、「經濟の不安は革命」と鉛筆で書き込んでいたことを紹介している[68]。井上準之助は、社会主義との対抗を明確に意識していたと見て良かろう。「革命の危機」が切迫しているとは感じていなかったであろうが、昭和恐慌が深化するなかで、緊縮財政を貫きながらも、失業救済事業への支出は承認するだけの「危機」意識は持っていたのである。 ii) 中状況「場」に規定された初期条件・課題との関連 井上財政期は、資本主義の発展段階としては20世紀資本主義の時代であると考えると、そこでの課題は、階級宥和と資本蓄積維持となる。階級宥和政策については、前にふれたように、労働組合法案・小作法案の提出、失業対策事業が行われた。このほか、1931年4月には労働者災害扶助法が公布された。これらの政策は、緊縮政策がもたらす不況の中で階級対立が激化する事態にたいしては、政策手段としての適合性は認められるし、歴代内閣の中でも、浜口・若槻内閣は、最も、階級宥和政策に力を入れた内閣と言うことが出来る。しかしながら、労働組合法にせよ小作法にせよ、結局は実現しなかったし、浜口内閣が提案した労働組合法案は、規制的色彩が強く、労働者側も強く反対したから[69]、階級宥和という点での有効性は小さかったと評価せざるを得ない。 資本蓄積維持という課題に対しては、利潤保証政策と生産力保証政策が政策手段として選択されるべき局面であった。1920年代の日本資本主義は、金本位制の停止下で、政友会主導の積極政策や救済政策を展開した結果として、不良債権・債務関係の堆積、物価の国際的割高、輸入の高水準などの問題点を抱え込んでいた。つまり、20世紀資本主義的な政策が採られた結果として、そのマイナス効果が発生していたのである。マイナス効果は、小状況「場」においては、ミクロの危機=利潤率の低下と、マクロの危機=経常収支の赤字として現れた。ふたつの危機は、日本企業の国際競争力劣化を大きな要因として発生していたから、政策手段としては、まず第一に、国際競争力を回復させる生産力保証政策の採用が必要であった。そこで、生産力保証政策として、金解禁が選択される。 井上準之助が、一貫して金解禁論者であったことは前に確認したが、このことは、ただちに、井上が、単なる金本位制の古典的信奉者であったことを示すものではない。長幸男の魅力的な井上金解禁論分析いらい、井上を、古典的金本位論者とに見る見方が定着している。長は、「金本位制が不可欠でもなく、金科玉条でもな」いと言う深井英五と対比させながら、井上を、「極めて素朴な常識的な金本位の所謂自動調節作用を採用する理論」の信奉者であり、「死を賭した断乎たる金解禁へのこの確信−ドグマティックな信念」の持ち主と描き出した[70]。もちろん、長も、古典的金本位論者井上が、19世紀的な金本位制への復帰を企てたわけではなく、「その素朴な論理に託された資本の複雑な利害」[71]を代表して金解禁を実行したと見ている。長は、「金融資本の経済的支配を更に整えようというのがデフレ政策−金本位制であり、対外均衡の回復を転回軸として資本主義的発展を待望する井上の古典主義はこの金融資本の運動原理を全国民のものであるとして宣言したことにほかならなかった」と判定して、「日本金融資本も、大戦以来の資本蓄積を足場として、国際資本戦の戦士として自らの筋骨を鍛えなければならぬ。日本経済に課せられたハード・トレイニングが緊縮財政であり、金解禁であった。」と書いている[72]。つまり、長の評価は、井上準之助は「自動調節作用にたいする信念−幻想的ドグマ」の持ち主であったが、井上の果たした役割は「日本金融資本」の利害代表であったということになる。 長の井上準之助分析は、歴史における個人の信念が果たす役割如何という問題を提起していて興味深いが、いささか井上準之助の思考と行動を単純化しすぎているように思われる。まず、井上準之助は、通貨価値の安定を至上命題とする価値意識から金本位制を支持したのではない。すでに見たように、1920年恐慌時の日本銀行総裁、大震災時の大蔵大臣、金融恐慌時の日本銀行総裁として、井上準之助は、救済融資を積極的に推進したのであるから、通貨価値の安定を至上の原理として行動したとは言えない。加藤俊彦は、若い時代の論考で、日本銀行総裁時代の井上について、「この時期の井上準之助には、後年の金解禁を断行し、金本位の維持に、それこそ全力をあげた彼の面目をみることはできない。否、むしろ、ある点では必要以上に放漫であつたとすら感じられる。」と書いている[73]。 つぎに、この救済融資への反省の上に、あらためて通貨価値の安定を金本位制に期待したのかというと、そうでもない。1926年10月の東京銀行倶楽部での講演では、財界整理の必要を説きながら、「人間といふものは非常に弱いものでありまして、正月が來なければ大晦日に箪笥の抽出の掃除も出來ぬのであります。金の解禁をする、即ち相當財界に影響を与へるやうなことも此處にしなければならぬと云つて年限が決まつたならば、此の財界の整理といふことも必ず相當迅速に運ぶであらう、又運ばせなければならぬのであります。」[74]と語っている。ここで井上は、財界整理という目的を達成するために、金解禁という手段が有効であると言っている。大晦日の掃除になぞらえて軽い調子で語ってはいるが、金解禁を目的としてではなく、手段として位置づける発想は、井上の本音なのではなかろうか。つまり、1920年代の不良債権・債務の累積や経常収支の不均衡など「不自然な經濟界」の「立直し」のための手段として金解禁が必要とされたのである。吉田賢一の言葉を借りれば、「金解禁とは、いわば己のまいた種を己で刈取るとも言える政策」[75]であった。 もし、単なる金本位制の古典的信奉者であれば、旧平価解禁であろうと新平価解禁であろうと、金本位制に復帰しさえすれば良いわけで、旧平価にさほどこだわることはないはずである。ところが、井上準之助は、旧平価解禁にこだわった。これには、井上が銀行家出身で貸借関係の実質的変動を嫌ったとか、フランスなど新平価採用国の場合ほど円価格は下落していなかったとか、貨幣法改正を要する新平価解禁は少数与党の民政党内閣にとって困難であったなどの理由も考えられる。しかし、最大の理由は、井上準之助にとって、旧平価解禁こそが、手段としての合理性が高かったからなのである。「己のまいた種を己で刈取る」には、旧平価解禁でなければならなかったのである。井上自らの説明を聞いてみよう。 「金の解禁は單に爲替相場の安定のみが全目的ではない。之れによつて國民一般の緊縮氣分を喚起し、公私經濟の面目を一新し、産業の經営を合理化し、經濟の根本立直しを行はんとする理想を其の中に包藏して居るのであって、此の目的達成の爲めには、従來の平價への合理的復帰を目標として進むの外ないのである。」[76] つまり、井上準之助は、「幻想的ドグマ」の信奉者などではなく、金本位制を手段として日本経済の立て直しを図ろうとした現実的政策家だったのである[77]。そして、その政策構想は、日本経済に「ハード・トレイニング」を課すことによって、「国際資本戦の戦士として筋骨を鍛え」、国際競争力を回復しようとするものであった。金解禁は、1920年代の20世紀資本主義的政策展開のマイナス効果を払拭するための生産力保証政策としては、まさに合理的な政策選択と評価できるのである。20世紀資本主義がまいた種を、20世紀資本主義が己で刈取る構図と言うことができよう。 iii) 小状況「場」に規定された初期条件・課題との関連 @ ミクロの危機への対応 企業利潤率が傾向的に低下を続けるというミクロの危機に対して、井上財政は適合的であったであろうか。緊縮財政と旧平価金解禁は、デフレーション=不況状態をもたらすから、短期的には企業利潤率はさらに低下するであろう。しかし、不況は、賃金コストの引下げを可能にするし、スパルタ式の「ハード・トレイニング」が企業の合理化を促進すれば、コスト削減による企業利潤率の回復は展望できる。また、デフレは、不良企業を淘汰し、企業集中を促進するし、重要産業統制法がカルテルを保護すると、独占的大企業の製品価格維持力は強化されて、利潤率は回復する可能性がある。 井上は、1931年4月の講演で、「日本に於て大小の企業を問はず、生産費が昨年の五月から今日までにずつと非常に下りました。原料を除いて――外国からの原料の下ることは勿論でありまするが、原料を除いて非常に生産費が下つたのであります。(中略)恐らくは今日では少なくとも二割五分、多いものは三割から三割五分位の生産費が下つて居ります。(中略)勞働賃銀を下げることも、勞働者を解雇することも、其の他非常な苦勞をして所謂冗費を省くことが、到底平時の場合では出來なかつたのが、左様にできたのであります。」[78]と語っている。井上が言うほど生産費削減効果が上がったかどうかは分からないが、輸入原料価格の低下を除いても、生産費削減が進んだことは間違いあるまい。また、不況下に、カルテル活動が活発になったことも事実である。井上財政は、ミクロ危機対応策として、短期的には不適合でも中期的には適切であると評価できる。 A マクロの危機への対応 国際収支の赤字累積というマクロの危機への対応策としてはどうであろうか。緊縮財政によるデフレ=不況は、内需を抑制して輸入を縮減させるし、輸出ドライブを強めるから、経常収支が均衡化する方向に向かうことは期待できる。旧平価金輸出解禁は、為替を安定させる限りでは貿易を促進するが、円為替を上昇させたから、輸入品円価格安・輸出品外貨価格高となって、当面は輸出抑制・輸入増進のマイナス効果が発生せざるを得ない。経常収支均衡化という目標に対して、緊縮政策は合理的であるが、旧平価解禁は不適切という評価になる。ただ、井上は、「ハード・トレイニング」による合理化を狙ったのであるから、その限りでは、新平価より旧平価による金解禁の方が「ハード」であり期待効果は大きくて、適合的であるとは言えよう。 井上準之助は、日本の貿易収支が均衡化することについて、決して楽観的ではない。1926年時点の発言ではあるが、井上は、日本の貿易の将来について、輸出面では、生糸は人造絹糸の登場で急増は困難、綿も在華紡の発展で伸び悩み、機械類は現在期待できない、輸入面では、綿花・食料は減らせず、機械類は殖えることはあっても減りはしないであろうから、「輸出を殖やすことも輸入を減らすことも、共に餘程困難であります」との見通しを述べ、海運振興による貿易外受け取りの増加をはかって経常収支を均衡化させるしか方法はないと語っている[79]。日本の貿易が輸入超過になるのは避けられないとの判断には、1920年代特に前半期の現実が強く反映されており、1930年代特に金輸出再禁止以後の実態からすると、誤った判断ということもできるが、1929年に蔵相に就任した時点では、井上は、貿易収支の均衡化が、極めて強硬な方法を用いなければ実現し得ない難問と考えていたにちがいない。1930年5月には、輸出補償法を制定して、輸出手形決済不能の際の政府補償制度を新設するなどの輸出奨励策は取ったが、輸入関税引き上げなどによる輸入制限策は採用せず、貿易収支均衡化の基本線は、厳しい緊縮政策の継続に求められたのである。 1920年代後半から、ふたたび重化学工業化が進みはじめ、国産品による輸入代替や、重化学工業製品の輸出が期待される時代に入りつつあったことを考えると、井上準之助の緊縮政策・旧平価解禁は、国内市場を収縮させ、輸入品の円建て価格を引き下げるから、重化学工業化のトレンドからすると不適合である[80]。重工業の中では、井上は、海運振興に関連させて造船業の発展に期待を掛けている。そして、造船業に対しては、集中的に保護することが良策であるとして、1926年頃には、イタリーのスクラップ・アンド・ビルド方式を紹介しながら古船の輸入関税を高めて新船建造を促す政策を提案している[81]。この造船業保護提案は、浜口内閣の蔵相時代には、造船資金貸付補給制度の新設というかたちで実施されている[82]。造船業やそれと関連する造船用鋼板の保護政策には賛成であった井上も、重工業の一般的保護政策は効果がないと考えていた。井上は、為替相場の低い状態が「保護關税を設けたと同様の影響を或種の工業に與へつつあつたものですから、解禁により爲替相場が恢復すれば此の保護を失ふこととなります」と述べながら、それに対する補償措置などを講じるとは一言も言わずに「生産費の低減によつて、失ふ所を償ふだけの用意と覺悟とが大切」と説教している[83]。重化学工業は、造船業などを除くと、裸のままで国際競争に曝されたのである。 井上財政は、マクロの危機に対して、短期的には、緊縮政策による不況下の縮小均衡をもたらすという効果を持つ可能性は高かった。しかし、中長期的に、経済成長のなかで拡大均衡を実現させることに成功するかどうかは疑問なところがある。産業合理化を進めるとしても、大量生産によるコスト低減を基本とする重化学工業部門の競争力強化には、やはり、ある程度の国内市場が必要である。緊縮政策で縮小した国内市場が、旧平価解禁による円高為替相場を梃子として輸入品に蚕食されることは、1920年代後半からふたたび進行しはじめた重化学工業化にとっては、極めて不利な状況である。「ハード・トレイニング」による日本的合理化が、賃金コスト削減に力点を置いて進められると、労働集約的産業部門の競争力は強化される。比較優位原理が働けば、軽工業中心型の産業構造が選ばれることになるが、井上も予想したように、人絹工業や中国紡績業が発展する時代に、軽工業中心型構造によって貿易収支の均衡化がもたらされる保証はない。井上財政は、国際競争力を強化する生産力保証政策ではあっても、はたして、中長期的なマクロ危機克服策として合理的であるか否かは、判定することが難しいのである。現実には、井上が緊縮財政・金解禁政策を開始するのとほぼ同時に、国際環境の大きな変化が発生したから、この判定は、結局、不可能になったのである。 B C時空変化後の政策対応の合理性 i) 世界恐慌とイギリスの金本位制離脱への対応 井上財政が、それ独自の不況を発生させたところに、世界恐慌が起こって、国際環境は大きく変わった。このC時空変化に対して、井上準之助は、失業対策事業への財政支出をおこなったものの、基本的には、緊縮政策を継続して金本位制を維持する政策、つまり、政策を転換しない道を選択した。1931年9月にイギリスが金本位制を離脱してからも、なお、井上は、政策転換を行わなかった。 中村隆英は、「井上の政策は不況を激化させ、その故に政治的な反対勢力はますます強くなった。そのような状況においては経済政策は単なる経済政策である以上に、内閣や政党の運命をかける争点に転化していく。経済理論的に考える限り経済政策は外側の条件が変わればそれに応じて変化すべきものであり、政策の基本を変えないにしてもその強さを加減したりするべきはずのものである。ところが政治的なイッシューに転化してしまった経済政策はもはやそれなりに硬直したものになってしまい、臨機応変の政策をとることが理論的には望ましいにしても、政治的には敗北を意味するという矛盾におちいってしまうのである。」と書いている[84]。 たしかに、井上準之助は、政治的な立場から、政策転換を行わなかったのかもしれない。ただ、井上が、「臨機応変の政策をとることが理論的には望ましい」と考えていたかどうかは判然としていない。大蔵大臣在職中も、また、民政党所属の貴族院議員としても、井上は、みずからの緊縮政策と金解禁堅持方針の正しさを訴え続けていた。すでに多くの人々が、金本位制を維持することは困難であると判断していたなかで、あえてそれが可能であると判断する根拠として、井上は、日本の場合は大量の金流出が起こる可能性は無いことを挙げている。緊縮政策の下では通貨の膨張はあり得ず、経常収支は均衡しており、短期の外資も存在していないから、金流出はあり得ないという判断である[85]。これは、当面の短期的状況判断としては正しさを含んでいるが、中長期的な状況判断と合わせてみなければ、金本位制維持が可能であるという判断にはならない。 当時は、イギリスの金本位制離脱は一時的措置であって、いずれは再び金本位制に復帰するとの見方も有力であったから[86]、事後的な経過を知る立場から、国際金本位制の終焉を見通して日本もただちに金輸出を再禁止すべきだったとの批判を井上に浴びせるのは無理である。しかし、金輸出禁止の結果、ポンド価値は下落し、1円=2シリング強の金平価から、1931年中に1円=3シリング強のところまで、30%以上も円高となったのであるから、これが日本の貿易収支に悪影響を及ぼすことは明白であった[87]。また、イギリス金本位制離脱の3日前にはじまった満州事変は、それまでも続いていた中国の日貨排斥の運動を一層激化させることは明らかであった。そして、1930年6月のアメリカのホーレイ・スムート関税法に始まるブロック経済化の動きも高まりつつあり、1931年には、すでに「関税戦争」という言葉も使われる状況[88]になっていたから、日本の経常収支が均衡を続けられるという保証はなかった。このような問題点は、井上も認識しており、1931年10月10日の財界有力者たちとの懇談会の席上、金本位制堅持方針を説明する中で、「對支貿易は満洲問題からボイコツトもあるが、これに就ては極力貿易の減少を阻止し、印度、亞弗利加等は磅下落のため故障を來してゐるが、之れについても貿易上、為替上、金融上に十分援助する考である。尚この外磅價下落から輸入が増加するのではないかと考へられるから、政府は極力これが調査研究を爲す筈である。」[89]と述べているが、具体的な対応策は提示していない。 また、短期の外資は存在しなかったから資金の引き上げは起こらないにしても、ドル買いの盛行が示すような、いわば国内発の資金流出はすでに発生していたのである。1931年の対ドル買い戦争には勝利したとしても、さらなるドル買いを抑制し続けて金流出を回避できるという保証もなかった。ドル買いに対抗する措置として、実需向け以外のドル為替取引を拒絶するという一種の為替管理を開始していたが、この結果、先物取引では、年内物が49ドルを割り込む水準に下落し、翌年物はさらに円安になるという、金本位制下では起こり得ない異常な事態が生じていた[90]。為替取引の規制を解除することが困難であるとすれば、事実上、金本位制の維持は不可能ということになろう。また、ドル買いに対抗して採用した金融引き締めにしても、いつまでも続けることは不況を悪化させるから不可能であり、金融を緩和すれば、ドル買いの再発を招きかねないことになる。イギリスに続いて、9月中にスエーデン・ノルウエー・デンマーク、10月にカナダ・フィンランドが金本位制を停止し、ドイツはすでに7月から為替管理を開始しているというように、国際金本位制の動揺が続く限りは、円が投機対象になることは避けがたかったと思われる。 このような中長期的な状況判断に立つと、イギリスの金本位制離脱によって、日本の金本位制の維持は、極めて困難になっていたと判断すべきであろう。このような判断が出来ない井上ではなかろうと考えると、あえて短期的な状況判断に基づいて金本位制の維持が可能であると井上が主張したのは、中村隆英のいう「政治的」立場からであったのかもしれない。この「政治的」立場は、民政党員としての井上が、若槻民政党内閣を存続させることに価値を認めたということかもしれないし、政策主張を曲げないことによって政治家としての自己の名声や地位を守ろうとしたということかもしれない。井上の「政治的」立場は、満州事変への態度を検討する中で、もう少し明らかになりそうである。 ii) 満州事変への対応 1931年9月18日の柳条溝事件は、関東軍の独走であったが、中国東北部侵略への陸軍内の動きは、すでに張作霖爆殺事件(1928年)以来、密かに着実に進行しており、陸軍中央や外務省も関東軍の謀略を事前に察知し、それを止める努力も払ったが失敗したのであった。若槻内閣は、不拡大方針を取ったが、戦費支出は承認し、国際連盟議長の中日両軍の撤退勧告に対して公表した声明(9月24日)では、満州での軍事行動を、正当な権利利益擁護のための措置と弁明し、国際連盟理事会の日本への撤兵勧告決議に対する声明(10月26日)では、撤兵は事態を悪化させるとして無条件の撤退を拒否した。 幣原外交にとって満州事変は致命的な打撃となったが、それは同時に、井上財政にも大きなマイナスの影響を与えた。幣原外交がロンドン海軍軍縮条約を締結して国際協調路線を進んだことは、軍事費縮減を含む緊縮財政を可能にする大きな前提となっていた。幣原外相は、対外的には満州事変の正当性を主張しながら、対内面ではそれが満州独立にまで進むのを抑えようと努めた。満州全面占領から満州建国まで事態が進行した場合の財政負担は、井上財政を否定し去るに違いなかった。満州侵略を抑制できるか否かが、井上財政の存否を決めることになる。 満州事変にたいする国内の反応は、無産政党や石橋湛山らを除くと圧倒的に軍事行動を支持するもので、経済団体は、相次いで、日中懸案・満蒙問題の根本的解決を決議した。たとえば、日本商工会議所は、9月28日に中国権益擁護・排日運動絶滅を主張する声明を発表した。ところで、一方で、日本商工会議所常議員会は、11月11日に、金本位制擁護声明を発表した。満州事変を支持すると同時に金本位制も擁護するという構図になるが、このふたつの声明に含まれる自己矛盾・自家撞着は、そのまま、末期の若槻内閣が抱える問題点であった。 満州侵略を強行する軍部を抑える手段として、安達謙蔵内相が政友会との連立内閣構想を提唱した。井上蔵相は、幣原外相とともに、これに強く反対したが、その時の様子を、内大臣秘書官長の木戸幸一が、次のように日記に記録している[91]。 「(11月17日)井上蔵相の今日の政情に対する意見は、昨今唱へらるゝ所謂挙国一致内閣或は政民聨立内閣は何れも軍部を掣肘し統制せむとする強力なるものには非ずして、寧ろ軍部に媚むとするものなれば、国家の前途を思ふては到底賛することを得ず、此上軍部をして国際関係を無視して其の計画を進むるが如きことあるに於ては国家は滅亡に瀕すべし、現政府は微力なりと雖も兎も角も今日あらゆる手段により軍部の活動を制御しつつある次第なり、従て軍部には誠に不評判なるも止むを得ざるところにして、此以上の強力なる内閣の実現は目下の処想像し得ざるなり、而かも若し軍部の統制を遂行し得るが如き強力なる内閣の成立を見るを得ば、此際特に好ましきことにて、之を支持するにやぶさかなるものにあらず、と概要其意見を吐露せらる。」 井上は、軍部の独走は国家を滅亡させかねないという危機感を持ちながら、軍部の抑制に努力していたことがうかがえる。井上が、軍部や軍事政策にたいしてどのような評価を持っていたのかを伝える資料は極めて乏しい。1935年刊行の伝記には、軍部批判など書かれるはずはないし、井上の公的発言のなかにもそれが現れることはほとんどあり得ない。この木戸日記以外には、一万田尚登の回想に、「井上さんが口癖のように軍が政治を左右するようになれば国が亡ぶと憂慮せられていたことは、いまなお、記憶に新しい」というくだりがある。一万田は、井上が金本位制維持を主張したのは、「軍を押えて戦争に赴くことを回避するためには、たとえ金の流出減少を來すとも金本位制を固く守り、軍費の無限の増大を防がねばならぬとの堅い信念に基づくものでなかったかと思う」と推測している[92]。 たしかに、緊縮政策の中で、井上は、軍事費の削減にもかなりの精力を注いできた。昭和4年度実行予算では、政友会の当初予算より総額9,165万円を減額したが、そのうち陸軍省分が1,343万円、海軍省分が800万円で、軍部予算減額は総減額の23.4%であり、昭和6年度予算でも、前年度実行予算比減額1億2,173万円中、陸海軍両省減額は7,423万円で減額分の61%、昭和7年度予算では、削減総額7,556万円中、軍部予算減額は3,771万円で約50%を占めている。特に、海軍関係では、ロンドン軍縮条約の結果、すでに決定されていた昭和6年度から6年間の留保財源5億810万円のうち約4億円が削減可能になっていた。ところが、軍縮条約を不満とする海軍は、条約内艦艇建造と航空兵力増強を中心とする海軍補充計画を新たに立案して、総額5億2,627万円の財源を要求した。厳しい折衝のすえ、井上蔵相は、補充計画を総額3億9,413万円にまで削減し、1億3,400万円を軍縮にともなう余剰財源として、それを減税に回すことに成功した[93]。 軍部との折衝で示された井上蔵相の厳しい姿勢には、緊縮政策を貫こうとする意思の強さとともに、軍事予算の規制を通して軍部を抑えようとする意向も感じられる。あるいは、満州事変以降の緊縮・金解禁政策の継続は、軍部抑制という「政治的」立場に起因するのかもしれない。しかし、独走しはじめた軍部を、対外的には弁護しながら、内部的に財政面から規制することは、ほとんど不可能であろう。すでに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐は、1931年11月8日には、満州国の頭首に予定した清朝最後の皇帝溥儀を、謀略によって、天津から満州に連れ出していた。緊縮政策は、遠からず、持続困難に陥るに違いなかった。
5 むすび 若槻内閣が倒れてから、井上準之助は、民政党の筆頭総務として政界活動を開始した。そして、総選挙の応援活動の最中、1932年2月9日夜に、血盟団員小沼正に射殺された。10月事件失敗後、海軍将校らと共謀して新たなクーデターを計画した血盟団組織者井上日召は、海軍将校らの行動に先立って、民間人による政財界巨頭や天皇側近の暗殺、「一人一殺」を計画し、小沼に拳銃を渡して井上狙撃を指示したのである。井上暗殺は、団琢磨暗殺、犬養毅暗殺(5・15事件)、そして高橋是清暗殺(2・26事件)と続く日本のファシズム形成史の開始を告げるものとなった。 血盟団や軍部青年将校らの行動を触発した原因は多様であるが、そのひとつが、昭和恐慌による都市中下層や農民層にたいする経済的打撃であることは間違いない。また、ドル買い事件がドル買い側の勝利に終わり、庶民の困窮をしり目に財閥などが巨利を得たと言われ、社会的反発が高まったことも、原因のひとつであった。このことから、もしも、世界恐慌以前の時期の経済政策が、井上財政とは異なっていたならば、歴史は、別の方向に展開したかもしれないという仮説がたてられる。長幸男は、高橋是清の軍事費抑制の努力は、「ファシズムを圧服して議会制民主主義を回生せしめるには、あまりにも遅すぎたのである。金解禁前の大正末期から昭和初期においてこそ、あるいはその可能性が賭けらるべき時であったろう。」と書いている[94]。「新平価と積極財政による経済の安定と産業構造改革の可能性は少なくとも金解禁以前の時期」[95]にあったと見るのである。興味深い仮説であるが、はたして、旧平価にかわる新平価解禁、緊縮政策にかわる積極政策が実行されたとして、世界恐慌の影響をどれほど軽減し得たかは疑問である。世界恐慌が、生糸価格=繭価格の暴落を通して農村に与えた影響は、新平価では救いがたいものである。仮に影響が軽かったとしても、軍部の謀略として進みつつあった満州侵略は発生していたであろう。満州国樹立=中国東北部の植民地化までを前提とすると、15年戦争へと向かった歴史が変わり得た分岐点は、高橋財政期に求めるべきと思われる[96]。戦争への道を決定的にしたのは、2・26事件であった。井上財政が、別のかたちの財政であったら2・26事件も発生しなかったと立論できれば、長幸男仮説も支持できるが、この立論にはかなりな無理がありそうである。つまり、井上財政が、15年戦争への道を必然なものとしたとは断定できないであろう。しかし、ここにも、歴史における必然と偶然の問題を考える好素材があることは確かである。 井上財政が、出発時の初期条件下では、20世紀資本主義的政策としても、小状況「場」の課題に対しても合理性を持っていたが、C時空変化が発生して以後の時期には、その合理性を失ったという評価を提起したところで小稿を終わりたい。次の課題は、日本近代の緊縮政策の3番目にあたるドッジ・ラインの検討である。 【追記】 大住栄治名誉教授記念号に小稿を寄せる感慨はひとしおである。経済学の問題についてご教示いただいたことは当然として、酒杯をあいだにおいての夜の語らいは、楽しくも有益であった。教室の窓越しに見る大住教授のグラフの板書は、ほとんど芸術的であったが、夜の会話も、芸道に近い面白さ溢れるものであった。万般にわたるご教導に、ここで深く感謝申し上げるとともに、今後もご厚誼のほどをお願いしたい。 (2002年12月28日成稿) [1] 「経済政策史のケース・スタディ−松方財政−」『青山経済論集』54卷3号、2002年12月。 [2] 『戦間期日本の経済政策史的研究』東京大学出版会、2003年、第1章・第2章参照。 [3] 筆者は、『概説日本経済史−近現代』第2版(東京大学出版会、2002年)から、それまでの現代資本主義あるいは国家独占資本主義に替えて、20世紀資本主義という用語を用いている。 [4] 日本銀行統計局『明治以降本邦主要経済統計』1966年、335頁。1920年上期の使用総資本利益率は、25.7%であった。第1次大戦直後の不況時、1914年下期でも、この数値は、7.4%であった。 [5] 前掲『概説日本経済史−近現代』第2版、105頁。 [6] 日立製作所『日立製作所史 1』1960年、6頁。 [7] 橋本寿朗『大恐慌期の日本資本主義』東京大学出版会、1984年、239頁。 [8] 前掲『戦間期日本の経済政策史的研究』162-4頁。 [9] 大蔵省昭和財政史編集室編『昭和財政史 XIII国際金融・貿易』東洋経済新報社、1963年、63頁。 [10] 津島寿一は、「私が七月に持って帰ってきた意見は、政友会内閣が継続しておるものと予想して、円為替相場を若干切り下げるというのでした。」と語っている。安藤良雄編著『昭和経済史への証言』上、毎日新聞社、1965年、62頁。 [11] 『井上準之助論叢』一〜四(1935年)は、井上準之助の著作・論文・講演などを収録している。『清渓おち穂』(1938年)は、井上準之助の秘書役的人物であった清水浩が、『論叢』4卷を編集した後に、ヒアリングなどによって収集した井上準之助の人物像を、エピソード風にまとめた書物である。『井上準之助傳』(1935年)は、大蔵官僚として井上準之助の素顔を知る青木得三が執筆した伝記であり、この6冊は、いずれも井上準之助論叢編纂会によって刊行されている。 [12] 柳澤健『財界回顧』、『故人今人』世界の日本社、1949年。津島寿一『芳塘随想』第九集、芳塘刊行会、1962年。深井英五『回顧七十年』岩波書店、1941年。青木一男『聖山随想』日本経済新聞社、1959年。このほか、前掲『昭和経済史への証言 上』には、津島寿一・青木得三・青木一男・石橋湛山・高橋亀吉・大内兵衛のヒアリングが収録されている。 [13] 日本経済新聞社、1967年。のちに『昭和恐慌と経済政策』と改題されて、講談社から1994年に再刊された。中村は、この本の最後に、金解禁関係の政府・日本銀行資料の公開が望ましいと書いているが、その後、日本銀行調査局編『日本金融史資料 昭和編』の第20巻〜第23巻(1968年〜1969年)に、金輸出解禁・再禁止関係資料が収録公開された。 [14] 井上準之助あるいは井上財政に関する論考を含む刊行書としては次のようなものが挙げられる。島恭彦『大蔵大臣』岩波書店、1948年。吉野俊彦『歴代日本銀行総裁論』ダイヤモンド社、1957年。有竹修二『昭和大蔵省外史 上巻』昭和大蔵省外史刊行会、1967年。長幸男『近代日本経済思想史』有斐閣、1971年。長幸男『昭和恐慌』岩波書店、1973年。田中生夫『戦前戦後日本銀行金融政策史』有斐閣、1980年。NHK“ドキュメント昭和”取材班編『ドキュメント昭和 6潰え去ったシナリオ』角川書店、1986年。山本義彦『戦間期日本資本主義の経済政策』柏書房、1989年。松浦正孝『財界の政治経済史』東京大学出版会、2002年。 井上準之助に関する論文は、下記のものがある。加藤俊彦「井上準之助についての覚書」『金融経済』43、1957年2月。宮本憲一「昭和恐慌と財政政策−井上財政と高橋財政」『講座・日本資本主義発達史論』III、日本評論社、1968年。桜谷勝美「日本資本主義と金解禁政策」『現代と思想』24、1976年6月。森七郎「日本における金解禁の特殊性」『金融経済』165・166、1977年10月。河原宏「井上準之助」『現代の眼』1980年8月号。吉田賢一「金解禁の歴史的意義−井上準之助の緊縮財政政策−」『経済学研究』(北海道大学)38-3、1988年12月。川畑寿「昭和恐慌と井上準之助」『亜細亜大学経済学紀要』21-1、1997年3月。小林道彦「高橋是清『東亜経済力樹立ニ関スル意見』と井上準之助」『北九州市立大学法政論集』29-1・2、2001年10月。 また、井上準之助を扱った小説的伝記には、城山三郎『男子の本懐』(新潮社、1980年)、秋田博『凛の人 井上準之助』(講談社、1993年)、高橋義夫『覚悟の経済政策』(ダイヤモンド社、1999年)がある。 [15] 前掲『清渓おち穂』20-21頁。 [16] 前掲『井上準之助論叢』四、14-30頁。 [17] 前掲『井上準之助傳』5頁。次の引用も同じ箇所。 [18] 前掲『故人今人』124-125頁。 [19] 「東京手形交換所新年宴会演説」(1920年1月27日)、前掲『井上準之助論叢』二、238-246頁。 [20] 深井英五『通貨問題としての金解禁』日本評論社、1929年、118-119頁。 [21] 前掲『井上準之助論叢』一、76頁。 [22] 前掲『井上準之助傳』162-165頁。 [23] 前掲『井上準之助論叢』四、507頁。 [24] 日本銀行百年史編纂委員会編『日本銀行百年史』第三巻、日本銀行、262頁。 [25] 安藤良雄編『近代日本経済史要覧』第2版、東京大学出版会、1979年、4頁。 [26] 前掲『日本銀行百年史』第三巻、262頁。 [27] 前掲『井上準之助論叢』一、91頁。 [28] 「休業銀行の整理方針と將來の財界對策」1927年9月21日講演、前掲『井上準之助論叢』三、13頁。 [29] 「舊平價解禁論」1929年8月稿、前掲『井上準之助論叢』四、263-264頁。 [30] 前掲『戦間期日本の経済政策史的研究』第4章・第6章参照。 [31] 前掲『歴代日本銀行総裁論』172頁。次の引用も同頁。 [32] 小野義彦「金融寡頭制の確立」『日本歴史・現代3』岩波書店、1963年。 [33] 前掲『戦間期日本の経済政策史的研究』第7章参照。 [34] 朝日新聞経済部『朝日経済年史』昭和3年版、朝日新聞社、1928年、53頁。 [35] 西園寺は、犬養内閣が5・15事件で倒れてからは、いわゆる重臣たちと相談しながら後継首相を選定するようになった。 [36] 加藤高明病没後と浜口雄幸狙撃後の内閣交替は、同一政党党首を選定した。 [37] 原田熊雄述『西園寺公と政局』第2巻、岩波書店、1950年、168頁。 [38] 増田知子『天皇制と国家』青木書店、1999年、185頁。 [39] 松浦正孝『財界の政治経済史』東京大学出版会、2002年、第2章参照。 [40] これらのActorが、金解禁問題でどのような役割を果たしたかについては、前掲『戦間期日本の経済政策史的研究』第7章参照。 [41] 前掲『昭和経済史への証言』上、63頁。 [42] 前掲『ドキュメント昭和 6』145-148頁。 [43] 『朝日経済年史』昭和五年版、335頁。 [44] 同書、337頁。 [45] 前掲『財界回顧』156頁。 [46] 前掲『井上準之助論叢』一、203頁。 [47] 前掲『戦間期日本の経済政策史的研究』第4章参照。 [48] 1921年11月の関西銀行大会演説、前掲『井上準之助論叢』二、283-285頁。 [49] 前掲『井上準之助論叢』一、436-437頁。 [50] 前掲『井上準之助論叢』二、488、511頁。 [51] 前掲『井上準之助論叢』三、55頁。 [52] 同書、153頁。次の引用は、同書、153-154頁。 [53] 井上財政に関する研究は、前掲注13、14の論著のほか、下記を参照。隅谷三喜男編『昭和恐慌』有斐閣、1974年。東京大学社会科学研究所編『ファシズム期の国家と社会 1昭和恐慌』東京大学出版会、1978年。橋本寿朗『大恐慌期の日本資本主義』東京大学出版会、1984年。大石嘉一郎編『日本帝国主義史 2世界大恐慌期』東京大学出版会、1987年。 [54] 前掲『戦間期日本の経済政策史的研究』第8章参照。 [55] 前掲『井上準之助論叢』三、362頁。 [56] 同書、388-389頁。 [57] 吉野信次『商工行政の思い出』商工政策史刊行会、1962年、184頁。 [58] 前掲『井上準之助論叢』三、413-415、438頁。 [59] 前掲『井上準之助論叢』二、435頁。 [60] 前掲『井上準之助論叢』二、307頁。 [61] 「我国財界の現状と国民の覺悟」1930年6月16日講演、前掲『井上準之助論叢』三、408-409頁。 [62] 同書、516、529、532頁。 [63] 前掲『日本金融史資料 昭和編』第21巻、401頁。 [64] 前掲『ドキュメント昭和 6潰え去ったシナリオ』202頁。 [65] 前掲『清渓おち穂』149頁。ウエッブ夫妻のSoviet Communism: A New Civilisation? は、1935年の出版であるから、井上は読めなかった。ちなみに、高橋是清は、この本を読んでおり、本を手にする高橋の新聞写真を見て、大内兵衛は、日本の財政もなお「健全」さが保たれるかもしれないという一縷の希望をいだいたと回想している。大内兵衛『忘れ得ぬ人びと』角川書店、1969年、23-25頁。 [66] 前掲『井上準之助論叢』二、422-423頁。 [67] 「濠洲の經濟政策破綻」1930年5月稿、前掲『井上準之助論叢』四、270-293頁。 [68] 前掲『清渓おち穂』149頁。 [69] 前掲『戦間期日本の経済政策史的研究』第8章参照。 [70] 前掲『日本経済思想史研究』119-121頁。 [71] 同書、121頁。 [72] 同書、166-167頁。 [73] 前掲「井上準之助についての覚書」50頁。 [74] 前掲『井上準之助論叢』二、520-521頁。 [75] 前掲「金解禁の歴史的意義」71頁。なお、吉田論文には三和の論理的不整合を指摘する箇所があるが、この批判は承服しがたい。旧平価解禁は実物経済には影響しない名目的な物価下落であり、昭和恐慌という実物経済に直載(ママ)影響を及ぼす経済過程と無区別に論じたことが不整合と批判されているが、三和の論点は、旧平価解禁の準備過程の緊縮政策がデフレをもたらし、さらに、解禁による円為替高が物価を引き下げるということであるから、昭和恐慌を予料して議論しているわけではない。 [76] 「舊平價解禁論」1929年8月稿、前掲『井上準之助論叢』四、264頁。 [77] 井上準之助が、金本位制の自動調節作用を金科玉条の理論として受け容れていたかどうかは疑問である。井上は、「對外價値と對内價値といふものは、日本のやうな世界の中心から遠ざかつて居る所で一致するや否やといふことは、私は疑ふのであります。」と発言している(前掲『井上準之助論叢』三、159頁)。 [78] 1931年4月27日、全国無尽集会所定時総会における演説。前掲『井上準之助論叢』三、518-519頁。 [79] 京都帝国大学連続講演。同書、484-486、495頁。 [80] 吉田賢一は、旧平価解禁の理由のひとつとして、「重化学工業化のための基礎資材の輸入価格引き下げに寄与すること」を挙げている(前掲「金解禁の歴史的意義」76-77頁)。主として桜谷勝美の前掲論文に依拠した論点であるが、これは支持しがたい。1920年代末の時点では、基礎資材輸入よりも製品市場確保が重化学工業にとっての最重要課題であったからこそ、重化学工業企業は、金解禁に拒否反応を示したのである(前掲『戦間期日本の経済政策史的研究』第7章参照)。 [81] 京都帝国大学連続講演。同書、502-505頁。 [82] 杉山和雄『戦間期海運金融の政策過程』有斐閣、1994年、第2章参照。三和良一『近代日本の経済政策史的研究』日本経済評論社、2002年、第7章参照。 [83] 「金解禁決行に當りて」1930年1月11日ラジオ放送、前掲『井上準之助論叢』三、325頁。 [84] 前掲『経済政策の運命』207-208頁。 [85] 日本商工会議所定期総会懇親会における演説、1931年11月27日。前掲『井上準之助論叢』三、556-561頁。 [86] 『朝日経済年史』昭和7年版、346頁。 [87] 日本銀行内部でもこの点は懸念されていた。「日本銀行調査月報」昭和6年9月、前掲『日本銀行百年史』第3巻、497頁。 [88] 『朝日経済年史』昭和7年版は、346-356頁に「關税戰争鳥瞰」を特集している。 [89] 前掲『井上準之助傳』794頁。1931年11月6日の第2回懇談会では、井上は、ボイコットとポンド下落の影響は小さく、1931年の経常収支はトントンになるかもしれないとの見通しを語っている。 [90] 『朝日経済年史』昭和7年版、30頁。 [91] 『木戸幸一日記 上巻』東京大学出版会、1966年、114頁。 [92] 一万田尚登『人間と経済』河出書房、1950年、101-102頁。 [93] 予算数値は、大蔵省昭和財政史編集室編『昭和財政史 III歳計』東洋経済新報社、1955年と、前掲『井上準之助傳』による。昭和5年度予算については、適当な数値が得られなかった。 [94] 前掲『昭和恐慌』220頁。 [95] 同書、197頁。 [96] 前掲『戦間期日本の経済政策史的研究』第9章参照。 |